父親がピシャッと抑えたあ

先生にきつく言わ

両親をも大切にすることです。

われわれはいまや、干渉のし過ぎとして考えなければならない時代となった。
教育を母親任せにしない-教育ママの増加が登校拒否児を生み出した生徒、学生にとって生活の中心は学校である。学校は勉強の場であり、人間のふれあいを学ぶ場であるのだが、これから逃避しようとする力が常識の線を越えると、登校拒否のような反応が現われる。
この登校拒否が世の人びとの話題にのぼるようになったのは、昭和三十年代からだ。わが国の経済が高度成長し、それにつれて個人の経済が安定してくると、子どもへの教育熱が急激に高まって、競争社会に対処すべき危機感、不安感から、いわゆる教育ママなるものが生まれてきた。その教育ママの増加と登校拒否の子どもたちの増加とは、おおむね並行関係にある。
登校拒否の典型例を示してみよう。

先生によって対応は大きく異なるそうです。

K子は小学校三年生のとき、担任の先生が交代したのをきっかけに、学校で全く口をきかなくなってしまった。そのうえ、自宅から学校までの登校歩速がノロノロと遅くなり、時間がかかるようになった。そこで父親は遅刻することを心配して、車に乗せて学校まで連れていったりした。母親も、担任が今までとちがい、厳しい中年の女の先生なので、K子が先生に慣れにくいのだと思い、なんとかなじませようと、日曜日にK子と共に先生宅を訪問したりしたこともあったが、K子はいっこうに先生になじもうとしなかった。

 

父親が写っていたのである。

子供の服装を派手担任は、学校でのK子が発表はもちろん、言語的応答を全くしないことに対し、しばしばどうして口をきかないの?黙っていてはほかのお友達に迷惑がかかりますなどと言い、注意や叱責を加えていたそのうちK子は、朝になると腹痛を訴えて登校を渋るようになり、とせず学校を休むようになった。
やがてどうしても登校しようすると、担任は母親に対し、「家庭ではK子が自宅に居づらくなるようにもっと厳しく当たりなさい。そうすれば学校に来るようになります」と助言したので、家族はその助言に従ってK子を強く叱ったり、叩いたりして、ただひたすらに登校するように仕向けていたところ、K子は登校するようにはならず、家族とも口をきかなくなってしまった。

母の膝の上で揺られて帰った思い出などこの例は東京学芸大学の渡辺位さんが紹介しており、問題となるのは子どもの不安を表面的にしか把握できない教師の態度と、主体的な子育てを出来ない母親にも、多くの責任があるのでないかと言っている。
-登校拒否は親への復讐の現われ都立教育研究所の平尾美生子さんの紹介分析している例を、もう一つあげてみよう。
中二男子、父親四十七歳、会社員、母親四十二歳。小学校三年の頃から、月に二、三回は学校で何かいやなことがあると休み、母親に送り迎えしてもらうことがよくあった。中学に入ってからは、週に一、二回は頭が痛いとか、友達にいやなことをいわれたとかの理由で休んだ。そのたびに、母親は本人の欲しがるレコードなどを買い与え登校させたが、それも長続きせず、欠席日数が次第にふえていった中二になって、母親は担任教師から甘やかしている態度を注意され、それで登校と交換条件の品物を制限し始めた。その頃より、母親に暴力を振るい出した。品物を買わないと、母親をなぐったり、ガラス戸を壊したりするので、つい母親も買わざるを得なくなり、高価な物へとエスカレートしていった。自分の思い通りになれば機嫌よくテレビやレコードを楽しみ、夕方になると自転車を乗り回したリするこの子どもは幼少時から両親に甘やかされて育ち、欲しい物はすぐ買ってもらい、自分の思い通りの生活をしていた。

小学校の通知票はい

母さんはその後真央ちゃんに対して腹が立つというとくに小学校三年まで祖母が同居し溺愛された。そのため、自己中心的で内弁慶的な性格となり、友達とはうまく遊べず、仲間はずれになるとすぐ母親に助けを求める状態であった。この子どもはカウンセリングの中で、「自分一人では何もできない人間になったのは、親のせいだ。もっとお父さんが怒ればよかったんだ」とも述べている
子どもが登校拒否をして、母親がオロオロしたりヒステリックになるのはある面では仕方ないともいえる。そんなときに、父親が母親に同調してはいけない。登校拒否児の父親というのは、子どもの教育は母親任せといった無関心、消極型が多く、父親としての責任をとらない傾向がある。登校拒否には親を困らせるためという一種の子どもの親に対する復讐の心理があるとの時期の拒否的態度は、自分自身の不安や悩みへの反撃でもある。
に挫折が起こり、やがて神経症へと進んでいく。
それが抑圧されると心理的こういうケースに共通して言えることは、諸悪の根源は親の過保護と期待過剰にある
ことだ。

教育につきる。

子どもたちは私期待過剰はそのまま過干渉につながるという人間は誰でも、自分に出来たことは他人にもできるはずだと思い込む。まして自分の子どもでもあれば、親の欲目というのが入る。このくらいのことができないのはおかしい、などと子どもにとってかなりレベルの高いことを要求したりする。教育ママは、子どもを遊ばせたり、息抜きをさせる時間も与えずに、塾だ、勉強だと尻をたたき続ける。これでは子どもはたまらない。大人だったら酒を飲んでうさを晴らすとか、趣味の世界にでも逃げ込めるが、子どもは親の過剰な期待の重圧をまともに受けとめて、つぶれてしまう。
かといって、なにごとも子ども大事の大甘教育でもだめだ。子どもが親を馬鹿にしつつ依存する決して子どもの自立心や社会性を生み出さない。


母さんはその後真央ちゃんに対して腹が立つという 先生との相性が悪い場合の工夫それぞ 体験をした時

母親への依存度が高い子ほど危険一時期しき

大学生を対象に再度行なってみた。

1人を大事にするから親切にもなれるという教え何でもおっくうがらずに、その場で片づけろというのも、のでも、人を大事にというのがその根本なのである父から学んだことだ。
礼状1つを出すわたしが女性に評判がいいのは、斎藤の家へ行くと帰りにコートまで着せてくれると評判がたっているからだが、これは父の真似である。父はお客を玄関に送っていくと、外套を、自分で着せてあげた。父は男女を問わずそういう行動をとったが、わたしは男性にはそういうことはやらない女性にだけだ。男性は甘やかすべきではない。
それから、医者として患者を大事にするということ。父は患者をご病人とよんでいた。最大限患者を大事にする言葉だと思う。患者の口から、あんなやさしい先生という言葉がでるのを父の死後聞いたまた、こんなにまでして人にサービスしなくてもいいのではと思うことがままあった。祖父のつくった箱根の別荘は、のちに父が使うようになり、結局、父の専用の如くになってしまい、父の仕
事の重要な部分はみな箱根でやったものだ。



母さんが言いきかせようとしていることのほとんど
九月は病院から離れて、八、その間、病院は、副院長、ドクター、事務長に任せていた。新聞社とか出版社というのは、大した用でもないのに、やたらに速達を出す習性がある。その速達を郵便屋さんが汗水たらして、箱根の山道を届けにくる。何事かと思って開封してみると、別に速達にしなくてもいいようなことである。父は烈火の如く怒ると同時に、郵便屋をかわいそうに思い、そんなにやらなくてもいいと思う七、そこに籠る。
ほどのチップを渡したり、とうとう色紙まで書いてやったりする。
色紙を書くときの父の苦しみを知っているので、われわれは頼んだこともない。汗をたらたらとたらし、いまにも、脳溢血を起こしそうな表情で色紙や短冊を書くのが常であった。その苦しみに耐えて感謝の意をあらわすために、自分から郵便屋にすすんで書いてやる。人を大事にする、感謝する、ということを自然と父から学んだ。
こう書いてくると、洒脱で、物わかりがよい父と思うかもしれないが、まったくその反対であるジョーク、冗談の類いは大嫌い。

  • 子どもがそうなるなどといっているのではなく
  • 子どもの姿勢を大きく左右します。
  • 育てることは少しも不可

子ども時代を振り返る

母は家にあってわたしは祖父の血が流れているのだろう、ジョークが大好きで、父に何か面白いことを言うと逆に叱られた。それでも、戦後の一時期は暗い世の中で、冗談でも言っていなければ一日も暮らせなかった。
-父と同じ長男的な臆病さも父は慎重で、あるところで歯止めをかけるという性格であった。
たとえば、父は六十歳くらいのときに恋愛をしている。今でも父の研究の重要な部分のひとつがその時期の恋愛に集中している。この恋愛もゴールに到達していない。ほんとうの恋愛とは言えないと言う批評家もいる。あるところまでいってストップする。長男的な人間は臆病である。とことんまでいけない。
その点は、わたしも似ている。
からしめるところだろう。
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成長を確認しやすいこれは別に父の影響とかいうことではなく、長男という立場のし父のいい点を書いたが、一方に真似をしたくないところもある。わたしは芸術家ではないから、父の勝手なところ、非常識なところを真似はできない。できるだけ常識的に行動するようにするだが、やはり血というものか、残念なことにわたしもどうやら癇癪持ちであるこのごろは大分おだやかになったが、若いころはずいぶん癇癪を起こした。しかし、癇癪というのは、年齢だけではなくて、環境の影響もある父もわたしも、いちばん癇癪を起こしたのは、それぞれ病院再建の時代である。自分の子どもたちにまで当たった。自分の感情をむき出しにして当たったことも多い。今考えるとかわいそうなことをしたと思う。
わたしが長男だという意識、父の伜だという意識を持ったのは、父が死んでからである。それまでは、それほど意識を持っていなかったが、父が死んでみると周囲や世間が自然とそう仕向けるようになった。
まず第一に、葬式のときに自分の立つ場所が決まる。あらゆる決定権がわたしのところへくるようになった。すべてがわたし中心に回転し出す。否応なしに長男の自覚を持つことになる。

先生にこういう口をきく。

わたしもまた父と同じように、子どもに対して格別の教育をした覚えはないが、子どもは子どもでそれなりにわたしの生活態度を見ながら、何を掴み、何かを捨て、時代に適応しながら生きてくことだろう
子育ての中で親が学ぶこと-長男の誕生は終戦直後の物資不足の中だったわたしの初めての子、長男が生まれたのは昭和二十一年、敗戦直後の混乱期である。わたしが兵隊から帰って来てできた子で、そのときのわが家の状況は、自宅も病院も全部空襲で焼け、完全に何も残らぬ状態であった。住まいはといえば、幸い焼け残った女房の実家にやっかいになっていたし、家族はバラバラで、父母も疎開で東京にいないし、妹も親類に預けたり、弟は地方の学校に行っており、東京にいたのはわたしと女房だけだった。
いつまでも女房の実家にやっかいになってはいられないので、必死になって家を探していたがそのあげくやっと見つけた家は、雨露をしのぐとまでもゆかず、雨もりはするは、雨戸もないは障子もないは、風がピューピュー吹き込んでくるは、であった。
母さんはその後真央ちゃんに対して腹が立つという

先生ならもしれませんねえ。

先生がふえたからといっておどろくことはない。なぜ雨戸がないかというと、前に住んでいた人が燃料として燃やしてしまったからだ。水道はないし、井戸もつるべがなくて、カン詰めのカンにカナヅチを重しにつけて水を汲んでいた。
妹と母が疎開先から戻ってきて合流した。そういう状況下で子どもが生まれた。知らない土地なので懇意な産婆もいないし、家は狭いしで、ツテをもとめてある病院に頼んだと言っても、前もって入院させておく余裕がない。女房も大事な労働力で、いなければ困る。わたしは大学病院に勤めていたし、焼跡の後始末や借金のことで飛び回っていた。
ぎりぎりまで家にいて、お腹が痛いと言い出したら連れて行くことにした。母方の叔父が松沢病院の精神科の医長で官舎にいた。