子供が立ち上がると私の方をむいて

母親が喜ぶと思ったのだなと。

子どもが将来お金で失敗して

まあしょうがないやとわれわれはよく言うが、父には絶対そういうところがなかっただから全身全霊で一つのことにぶつかることにもなる父と一緒に食事をしていると、すぐにガリッと石を噛む。昔はよくご飯の中に石が入っていた同じご飯を食べていても、こちらは噛まない。父だけがガリッと噛んで烈火の如く怒る。ご飯を噛むのも全力投球なのだ。われわれみたいにいい加減に噛んでいるのではなくて、決死の覚悟で噛むという感じだ。だから石を噛んでしまう。

小学校六年を終えている子でそれに対して

そしてカッと怒る。炊事の婆やが叱られてメソメソしている姿が今でも目に浮かぶ。
また、父は一日の生活が判で押したようで、定のパターンで終始した。
朝起きてから寝るまで、特別なことがないかぎり!
もろはだ朝、きちんと起きて、洗面のときは浴衣の洗いざらしたような寝巻きを諸肌に脱ぎ、体を拭く。真冬でも決まってやっていた。これはヨーロッパみやげだ冷たい水でかたみ父は三年間ドイツのミュンヘンで生活していたことがある。当時の歌に街上を童子等互に語り行くペン尖1つ五十万マルクするよというのがあるが、いかにインフレが物凄かったかがよくわかる。ドイツもオーストリアも第一次大戦の後で、敗戦国でもありインフレがもの凄くて貧乏のどん底みたいなときだった。もともと向こうの人は日本人ほど風呂には入らないが、当時はとくに風呂に入ることは贅沢なこととされ、冷水で肌を拭くのがせきのやまだったらしく、それを父は真似たわけである。

 

母の答えはいつも同じ。

先生もまた能力が低い父は、これを一生つづけた。
また父にとっては、食事に絶対に欠かせないのは味噌汁で、味噌に関してはことのほかうるさかった。前の晩、味噌汁の具を炊事の者にさと芋がいいとかネギにしろとか、いちいち注文した。
-自分の肉体を必要以上に気にする過敏さ夜寝る前に必ず家の者がやったことは、父が慢性の便秘だったので、硫酸マグネシアという下剤を水で溶いて持っていくことだった。飲むと朝起きたときにうまく通じがあるというので、毎晩寝る前に飲むことを習慣にした。
酒も若い頃はずいぶんと飲んだが、度を越すことはなかった。父が酔っ払って醜態を見せたことは一度もない。タバコもかなりのヘビースモーカーだったが、長崎医専時代にスペイン風邪にあって、そのあと微熱が出たりして治りがはかばかしくなかったのをシオにピタッと止めた。

子供にしたく自分の体を考えてのことだったと思う。これがちょうど四十二歳の時である。これも神経質のおかげではなしかと思うまた、文学をやっている人間にもかかわらず、他の文学者のように徹夜するというようなことは一切なかった。徹夜をしないというのは、もちろん本人が医者ということもあるが、神経質のなせるわざではなかったかと思う。自分の肉体を必要以上にいたわっていたということだ三十の声を聞いた頃から、日記とか文章とか、人さまに喋った言葉に、老いという言葉がさかんに出てくる。

学習全体へのモチベーションが上

体験をした時他にも疲れるとか、風邪ひきやすいとか、眠いとか、そういう言葉がよく出ている。自分の肉体に対する関心が異常に強いのである父は体をいたわるという点から昼寝をよくした。体質的にも非常に敏感で、医学的にいえば、自律神経過敏症といっていいだろう。たとえば朝から頭痛がする、きょうはカミナリが鳴るぞと言うと、午後には必ずカミナリが鳴る。カミナリが鳴る前兆である気象の微妙な変化も体に感じた
のだろう。
また、勉強の後に疲れてちょっと横になる。そういうときに人がくるのを極端に嫌う。

子供を持っている親の世代

子どもの気持のゆるやかな承認だけをしていてやる。新聞記者などが来ると、お手伝いさんが、今お留守ですとか、昼寝なさっています
昔の人は今のようにきちんとアポイントを取らずに、いきなり来ることが多かった。
編集者やとか言う。
それに、狭い家だから、下の玄関で
どうしても会いたいというのが聞こえる。相手はなかなか帰らずに粘っているわけだ。二階でそれを聞いている父はイライラする。ついにはムラムラしてきて、下へ降りていって、帰れなどと怒鳴って追い返す。とんだ居留守ということになるが父はそんなことは念頭にない。怒りの感情だけが頭の中を占めているのだ。だが、あとで電話をかけてきみ、すまなかったななどと謝ったりするのだ。
-人間嫌いの面は内閉性からきていた父の性格の特徴として、と非社交型となる。


体験をした時 母さんもたくさんいます。 子どもが小さいころからいろいろなことを学ばせいろ

体験をした時

伸びるところ

父母は婆やに育児の全権を与えたが、これはまた天下に比類
なき大甘の婆やといえた。
わたしに与えられた育児の内容は、過保護と放任、それに支配と干渉が加わるものとなった。
らに強いていえば、一過性の強力なインパクトが加えられたことになる。
さそういうわけで、わたしの落ちゆく先は逃避傾向である。
識などで構成された心理的傾向である。
小心、孤独、遅鈍、非社交、劣等意わたしは泣き虫であった。きらいな食べ物がたくさんあり、た。この偏食がのちに中学時代の鼻血事件につながるのだ。
反野菜、肉偏重の極端な偏食であっ大正十四年に妹が生まれ、翌三年に祖父が死んだ。
昭和11年に弟が生まれた。



先生との相性が悪い場合の工夫それぞ
その年に父は祖父に代わって病院長になり病院再建時代、深夜ふと目ざめると、父が電話でさかんに何かを訴え、また何かあやまっている声が聞こえる。子ども心にも、それが借金返済に関した重大なことであることがわかる。もういっまでもお坊ちゃまでいるわけにゆかないという気持ちが心の奥底に芽生えた。
妹がだんだん大きくなる。こやつがまことに気の強いやつで、兄を兄とも思わない。何か注意すると、その仕返しが何倍にもなってはね返ってくる。しまいにはきょうだいは他人のはじまりよなどというけしからぬことをぬけぬけと言う。次第にわたしは世の厳しさを知るようになった。
弟が生まれた11年後にまた妹が生まれた。兄としてのわたしの自覚がいよいよ強くならざるを得ない状況が、好むと好まざるとにかかわらず当然のように押し寄せていた。

  • 先生が来て自分が選んだ学科でもないのを強引に押
  • 先生に怒られちゃつ
  • 子どもを理解する

子どもたちにも伝えなければまた同じことを繰り返す

子どもに生きる力を与え机の上昭和十三年も深まったころ、婆やが脳卒中で死んだ。その日の悲しみほど大きな悲しみをかつてわたしは味わったことがない。わたしはハバカリに入っていっまでもいっまでも泣いていた。わたしは寄りかかるべき大木を失った。自立しなければならぬという気持ちがわたしの心中に湧き出していた。
父の生活態度からわたしは何を受け継いだか
-父親ゆずりの大きな字それでは、今述べたような父から、わたしはどのような影響を受けたのであろうか。
わたし自身を振り返ってみて、父から特別な教育をされたという思い出はほとんどない。
結局そのときどきのひと言、ふた言、えば言えないこともない父の態度を自然に見たこと、それが今から考えると父の教育と言人とのつき合い方とか、父の生活態度を見ていて、したのかもしれない人生の生き方などを、前に坐ってよく聞けというのはひとつもなかった。
真似したいところ、したくないところを取捨選択して、自ずと父を吸収父は、早飯食いであった。ゆっくりと食事を楽しむような食生活であったら、精神病院長としての仕事と歌人とを両立させて、なおかつ膨大な仕事量はこなせなかったと思う。
ピアノ教室に母さんもたくさんいる

いじめをしている食事が終わってお茶を飲むと、たちまちにしてチャブ台は物を書く場に変化する。硯、筆、葉書は食卓のかたわらに並べられている。葉書にはあらかじめ自分の住所、氏名のゴム印が押してある。葉書にゴム印を押すのは書生の仕事だった。来信の封筒は、書生が全部ハサミで封を切ってあって、それを読みすぐ葉書を取り出して、返事を書く。毛筆を使い、大きな字で、内容はビジネスライク。
たとえば、ごぶさたしましたとか、このごろお寒うございます
という前置きの挨拶は、あまりない。拝啓とか、拝復とかいって、いきなり仕事のことのみを、スピーディに書く。これが食後の、父の仕事であるなかには、当然のことながらきちんと便箋で、書いたものと思う。

勉強するという評価をする際にどのよう

封書の返事も書く。
それはあとから自分の書斎でわたしも父から、手紙の返事はすぐその場で書くということを教えられた。深夜帰って来ても翌日にまわすことはほとんどない。原則としては、その日の仕事はその日に片づける。なるべく葉書で、ちょっとしたことでもその日のうちに必ず書く。手紙の多いときは、そのために夜が明けかかることがあるが、怠けて翌日にまわせば、またニッチもサッチもゆかなくなるから、どんなに疲れていてもその日のうちに片づけるそれから、文字が父に似ていると言われる。
子どものためによかれと思って

父親というのは怖かった。

勉強しないの?威張った字を書けと、しょっちゅう父に言われていたものだから、自ずと似てきたのだろう。それに、わたしはこのごろ不思議なことにほとんど毛筆になってしまった。毛筆は楽で、一番早い。ペンよりもずっと早く書ける。父の原稿は、ほとんど毛筆である。万年筆で書いた字もあるが、その万年筆も全部太目のものだ。これも威張った字を書けということの延長線上にあることなのだろう。
鉛筆もナイフで先を尖らすことは一切ない。これはドイツ留学中に学んできたことだ。ドイツ人は合理的で倹約家だから、小学校の先生も鉛筆の先を尖らすなと教える。向こうの生徒はまん丸な芯で書く。これは父の性格にも合ったのだろう。文字はすべて太い。