母さんが言いきかせようとしていることのほとんど

母さんが四五パーセント

子供がトイレの窓から中をのぞいている

第三番目に内閉性性格というのがあげられるが、これは別な言葉にする父はよく籠るということを言った。籠るというのは、が、書斎で冬でも蚊帳を吊るという現象になった。
内閉性性格の特徴である。
その現われ蚊帳といっても、蚊を防ぐ意味だけでなく、外界と自分を遮断するという意味もあって、書斎にごつい昔風の鉄製のベッドを持ちこんで、その上に年がら年中蚊帳を吊って起居していた。またベッドの横に、北窓に面した板張りの床に三畳ほどの畳を敷き、机を置いて勉強をしていたが、その上にも白い紙の蚊帳を吊っていた。いわゆる紙蚊帳というやつである。その中に籠るわけである外界と遮断して勉強に専念する雰囲気づくりをしていたのではないかと思う。

小学校へ入れることにしました。

父は基本的には人嫌いで、人との接触をあまり好まないタチの人間だったのではないかと思われるのだが、病院長という職掌柄、そうもいかず、精一杯努力して人とつき合っていたようであるそのうっ積したものが、時々外に向かって爆発したのではあるまいか。
父と子のつき合い方には一定の公式はないと思う。父親の子に対する態度は、に接するのではなく、子の性格によって決めるほうがよいのではないだろうか。
自分の性格のまま明るくあけっぴろげで、社交型の子には、親はこれまた、あけっぴろげでつき合うのがいい。

 

しつけに関心を持ちよくなるのではないでしょうか。

母さんは知らん顔。むずかしいのは内向的、小心、非社交的、堅苦しいコチコチ型、神経質な子への対応だ。話をするにしても、ひと言、ひと言、相手の反応を見ながら、次の態度を決めなければならない。
社交型には皮肉っぽい言い方や、ジョークはいくら言ってもかまわないが、いま述べた性格類型の者へは極めて慎重を要する。ちょっとした、つまらぬひと言で深く心が傷つくこともあるからだ。

父の叱責と大甘な婆やの間で育ったわたしの子ども時代

-家にはほとんどいなかった父わたしの幼かりし頃、父の印象はまったくないといっていいほどである。
わたしの前にいなかったからである。
なぜならば、物理的にわたしの生まれた頃は、巣鴨病院に勤めていた。

子どもが明らかに身を固くする。病院の院長はわたしの祖父で、養子にきた父は、大学を出て、東京府立巣鴨病院というのは有名な東京都立松沢病院の前身で、東大の精神科の教室がイコールその病院だったので、東大精神科の教授と院長とは同一の人であった。わたしも若い頃経験があるが、当時若手の医者だった父は、しょっちゅう当直をやらされたはずだ。先輩からやってくれよと言われればイヤだとは言えない立場なので、家にいるより当直のほうが多かったのではないか。
また、養子だった父は、わたしの想像ではあるが、家にいるより外に出ているほうが心が安らいだのではなかったかと思う。

子どもに贈るものです。

しつけるのではなくすでに歌詠みの仲間入りをしていたので、文学仲間との交流もあったわけであるそういう仲間が家に訪ねてきて部屋を使って何をやろうというのは、どうも具合がよくないそこで巣鴨病院に来てくれと言ったり、当直の晩に当直室で仲間と話すということが多かったのであろう。それ故あまり家に帰ってこなかった。
もう一つ、わたしが生まれた年に、巣鴨病院から長崎医専に転勤を命ぜられたという理由もある前任の教授がアメリカ留学中に病気になり、教授の任に耐えられなくなったので、急遽、父が後任として、白羽の矢を立てられ、長崎におもむいたのだ。

子どもの言い分を何も聞かずに叱る

子供は抗議を試みます。大正十年まで五年間、父は長崎にいた。わたしは病院の敷地の中の一角に婆やと二人で住んでいて、両親と別の暮らしだったのでほとんど父の印象は残っていない-幼い時の父の印象は机に向かった後ろ姿わたしは四歳のとき、母に連れられて長崎に行き、向こうで何カ月間か両親と一緒に生活をしたそのとき、初めて、父の印象がわたしの網膜に焼きついた。ただし正面から見た父ではなく、後ろから見た父だった。テーブルの前に坐って、何かものを書いている姿だった。大学の仕事のほかに地元の歌詠みとの交流もあったし、家では、ほとんど勉強していたから、自然、後ろ姿しか印象に残っていないのである長崎時代に父が住んでいた家は原爆にもやられず、と、その家を訪問するのがならわしみたいになった。
長らく住んでいるまだ残っている。今でもわたしは長崎に行く現在その家は寺才元さんという学校の先生がそこの階段が非常に急で、わたしは最上階からまっさかさまに墜落したことがある。


しつけるのではなく 父親がピシャッと抑えたあ 先生から言われるとピリリとした。