子どもが小さいころからいろいろなことを学ばせいろ

母さんを憎んだり度を見ていればいず

母親から言われた言葉が多いものです。

そのとき父はもの凄く怒り、しかも心配そうに、どうした、大丈夫かという態度をしたことを覚えている精神科の医者なので、頭を打つというのがよくないということは常識だから、半分怒り、半分心配したというその気持ちは今のわたしにはよくわかる父は長崎に五年いて、一時東京に帰り、それからヨーロッパへ留学のため旅立ったのだが、長崎時代に大病を患った。病気はスペイン風邪、今でいうインフルエンザだが、全世界を席捲して、二千万人の人が罹り、死亡率三〇、四0パーセントにも達した。当時の長崎医専の学長先生も亡くなったし、わたしの母も、わたしも罹った。父の場合、予後がどうもはっきりしないので、大学を休み、雲仙、嬉野、古湯など長崎周辺の温泉に休養したりした。

伸ばし方という意味

東京に戻ってきたあと、信州の富士見高原の療養所で静養して、そのままヨーロッパへ発つ父が死んでからの話だが、父の遺体を解剖した結果、あの頃どうも具合が悪かったのは、だったのだなという結論が出た。結核を患っていたのだ。
これスペイン風邪が結核を誘発したといってもよい。ちょうど肺尖のあたりに結核が治った跡があった。石灰化といって、石灰が出てきて病気の部分を埋めるという働きが人間の体にはある。これが肺尖に見つかったのである
次に父を意識したのは、わたしが小学校四年生のころだ。
きく姿を現わしたのであるヨーロッパ留学帰りの父が目の前に大父はヨーロッパの帰りに、アメリカ回りで帰ってくるつもりでいた。ところが、後から父を追ってヨーロッパに行った母が懐妊したので、予定を変更して、日本へ直行した。その船が香港と上海の間を航行しているときに、青山の病院が燃えたという電報が入った。
大正十三年の、もうすぐお正月という暮れもおしせまった頃に、敷地内の一部の家屋を残して焼けてしまった。
病院が火事になったのである祖父が、父は歌詠みだし、帰国すれば、どうせ仲間を集めて歌会のようなことをするのだろうと考え、それにはある程度大きな部屋がないと困るだろうというので、病院の敷地の一角に、父を住まわせる二階家を建築した。

 

子どもの数が減り一人っ子の家庭も多くなっていこう

しつけという点において大きなマイナスなのです。ほとんど完成間近のところで火事が起こった。天井の一部が燃えたが家の本体は残った。とりあえず応急修理をして、一家がそこに住んだ。それによって、わたしとって、初めての家族同居の生活が始まった。
今までずっと父がいなかったのに、今度は仕事以外には家にいる。第一、朝食時には必ずいるわたしが父親の恐ろしさを感じたのはその頃からのことだ。一緒に食事することの辛さ、恐ろしさというか、しょっちゅう小言を言われていた。父の小言は箸の上げ下ろしなどを干渉するのではなく、日常の基本的な小言だった。
もっともその頃のわたしは内向的逃避型の子どもで劣等感の権化みたいであったので、を恐れて、逃げまわっていたのかもしれない。
よけい父それまで全くのひとりっ子で、しかも両親がいなくて、一種の完全な放任主義のうえ、周囲の者も甘ゃかすし、しかも、わたしを育てた婆やというのがたいへん大甘で、今から考えるとぞっとするような育児をやられた。

大学も付属嫌いなものは一切食べさせないとか、そういう超過保護的な状況にあったわけであるそういうことで父から見れば、いくら叱っても叱り足りない息子だったのだろう。
1弟妹が生まれることで過保護から脱却間もなく妹が生まれた。寒い朝で、婆やがその赤子を抱いてやって来て、あたためてやってくださいねと言ってわたしの布団のなかに入れた。すえた乳のような臭いが、その小さな肉のかたまりから匂ってきて、わたしの鼻をやわらかく刺激した。衣服を通してかすかなぬくもりも感じられたわたしは九年間という間、のであった。
ひとりっ子でいて、その晩はじめてきょうだいというものを実感したわたしはほんとうに長い間、ひとりっ子として育ってきた。当然のことだが、きょうだい喧嘩の味を知らずに育った。

母乳語に専念しなくてはならない段階の赤ん坊のとき

母親への依存度が高い子ほど危険一時期しき父は病院の再建に忙殺されていたので、わたしの前にはほとんど姿を現わさず、母もまたその性格と環境の故に、ほとんど姿を現わさなかった。たまに現われてもわたしを身体の小さな大人として扱い、すべてに先手を打ち、干渉した祖父は火災の打撃で、まったく気落ちし、病院の再建の苦労はすべて父の双肩に重くのしかかっていた。おまけに、ヨーロッパで三度の食事を二度に減らし、大いに倹約して苦労して買いこんでは日本へ送っていた本が火をかぶったり、焼けてしまったことなどもあり、父の機嫌はきわめて悪く、わたしの頭上にも毎日のようにカミナリが落ちた。父親というものはこんなに恐ろしいものかと思った。小春日和にいきなり竜巻が襲ってきたようであった。
父はどうやら、留学が終わったあと、大学に残り、教職、研究の道を進もうとしていたらしいふしがある。

子どもたちが見て育つ

母親が受けるその理想も、病院の火災でご破算になり、研究どころか、父にとって最も苦手な、病院経営といういわば経営者の道を歩くことになったことへの不安と不満、毎日の世俗的な仕事の堆積が文学活動に大きな障害になったことなどが、父の気分を平穏と反対の方向へ引っ張った。さらに金が足りなくて、高利貸しからも借金をし、その返済に苦しみ、ときに差し押えの脅迫を受けるなどの苦難の道を歩むことになる。大正の末頃、父は自らを神経衰弱と診断し、とみに睡眠薬の量がふえた一方、婆やがわたしの身近にいる。


母親への依存度が高い子ほど危険一時期しき 母親になるということはすばらしいことです。 子供が立ち上がると私の方をむいて