成長の途上で心も体も不安定なのです

子どもの世界

かなり高い神社の塀から落ちて、骨折したこともある四谷の家へ引っ越してきた当座は、屋根に登ったり、月光仮面の真似をして、塀から飛び降りたり危ないことを平気でやる。器用で何をやってもうまい。長じてはマラソンをやれば1等になる。グライダーにも乗る。とうとうカー·レーサーまでやってしまう。しかし、それもある年齢までで今はすっかり落ち着いている。
次男のほうは、あちこち目が向かないで、趣味はただ一つ。ヒコーキマニアである。
ら原稿を頼まれるまでになった。そして黙っていても医者になっ航空雑誌か考えてみると、長男はほとんど放ったらかしだった。子どもの面倒を見る余裕がなかった。
ために親は、一生懸命だったから、そのために野育ちだ。粗衣、粗食で育っている食ういちばん辛い時期が過ぎて、日本全体に多少のゆとりが出てきた頃に次男が生まれた。
11年はずいぶんとちがった。



母親になるということはすばらしいことです。
子を大切に育てられるだけの余裕ができていたあの頃のわが家では、長男と次男の公式の逆をいく性格の違いの要因のひとつがそのへんにあると思うむろん、環境だけでなく、素質というものが一枚かんでいることは、精神医学の常識であるからこの事は忘れてはいけないが、従来はこの環境というものが忘れられがちであったから、わたしはあえて、環境に重点をおいてこの項を書いたのだ子どもの自主性を尊重するのは、父親の役割こんなことがあった。

  • 子どもたちはいろいろに思います。
  • 母さんなんか大ツ嫌い!
  • 勉強していくものだと思います。

教育ではくさんある。

子供にぶつけ女房は子どもの頃からバッハ、ベートーベンを聴くというような音楽的な子どもたちの情操教育を音楽でやらせようとしたのも無理はなかっ家庭で育ってきたので、当然、長男に、バイオリンの先生をつけたが、その先生が厳しくて、宿題は出す、やってこないとビシビシやる、それでとうとう先生のところへ行かなくなってしまった。それでも家内が手を引いてむりやり連れて行くということが、二、三回はあった。しかし、そのうち長男は断乎として拒否するようになった。
わたしはこれは合わないと感じて、思いきってやめさせてしまった。ところが、それから何年かして中学生になったら、音楽に夢中になったのだ。グループサウンズを結成して、コンクールで一位か二位になったりした。
成長の途上で心も体も不安定なのです

母さんはこのような人だろうと思う音楽的な素養は充分にあったわけだ。だが、小学生の頃は一種の強制で
自由意志でなかったので、逃げたりしたのだろう。もっとも子どもの頃に前途を見通すだけの能力などはありつこないのだから、ある意味での強制が必要なこともあるだろうが、これはだめだと見極めをつけたら、さっさと見切りをつける勇気も必要だ。
その場合は、母親よりもむしろ父親の役目だ。
そんな母親を説得するのは父親の出番なのだ。
母親はどうしても、子どもに何でも習わせたがる。
ただ、たとえ下手であっても本人にやる気があったり、楽しみの一つであれば、続けさせればよい。往々にして、こんなことをしたってお前の一生に何の役に立つのかと世の父親、母親はよく言いたがるが、もし余力があれば何でも経験させるべきだ。そのために、落第したり、本来の勉強がおろそかになるようだったら話は別だが、人生の実利とは無関係でも夢中になれるものが、二つや三つあってもいいのではないだろうか。

教育改革の具体策として論議されているようです

母親はどうしても実利的なことに結びつけたがるが、そんな時は、父親が子どもの味方になってあげる必要がある。
次男は今は飛行機専門だが、子どものころは天文学に夢中だった。
トして、一晩中空を眺めていた。
冬の寒い夜でも望遠鏡をセッ一つのことをとことんまでやりそうだと思ったら、少々のことには目をつぶるべきだ。子どもが本気でやろうとしているのかどうかはすぐわかる。ひと月もすればすぐ飽きてしまって、次のことに夢中になるようではだめだ。三カ月、四カ月とそれに夢中になっていたら、これは本物だから許してやらなくてはいけない。
子どものことだから、本格的に長続きすることばかりではないかもしれない。
母親への依存度が高い子ほど危険一時期しき

中学へ行くまでの十二年間親の方

子供を一人前の社会人へしかし大人になってからでも、夜空の中から遠い星を探し出した感動とか、そのときの情熱というものは人間的な糧となってあとに残るはずだ。
-親は子どもの趣味には口をはさまないわたしは実生活に直接役に立たないような趣味を持っていることが、その人を大きくさせることだと思う。そういう意味で、子どもが趣味を持つということに反対はしない時に、親の目からは、もっと別のことに興味を持ってくれればいいというような趣味であっても、子どもがそれに興味を持つのは仕方のないことだと思う。

子どもが小さいころからいろいろなことを学ばせいろ

母さんを憎んだり度を見ていればいず

母親から言われた言葉が多いものです。

そのとき父はもの凄く怒り、しかも心配そうに、どうした、大丈夫かという態度をしたことを覚えている精神科の医者なので、頭を打つというのがよくないということは常識だから、半分怒り、半分心配したというその気持ちは今のわたしにはよくわかる父は長崎に五年いて、一時東京に帰り、それからヨーロッパへ留学のため旅立ったのだが、長崎時代に大病を患った。病気はスペイン風邪、今でいうインフルエンザだが、全世界を席捲して、二千万人の人が罹り、死亡率三〇、四0パーセントにも達した。当時の長崎医専の学長先生も亡くなったし、わたしの母も、わたしも罹った。父の場合、予後がどうもはっきりしないので、大学を休み、雲仙、嬉野、古湯など長崎周辺の温泉に休養したりした。

伸ばし方という意味

東京に戻ってきたあと、信州の富士見高原の療養所で静養して、そのままヨーロッパへ発つ父が死んでからの話だが、父の遺体を解剖した結果、あの頃どうも具合が悪かったのは、だったのだなという結論が出た。結核を患っていたのだ。
これスペイン風邪が結核を誘発したといってもよい。ちょうど肺尖のあたりに結核が治った跡があった。石灰化といって、石灰が出てきて病気の部分を埋めるという働きが人間の体にはある。これが肺尖に見つかったのである
次に父を意識したのは、わたしが小学校四年生のころだ。
きく姿を現わしたのであるヨーロッパ留学帰りの父が目の前に大父はヨーロッパの帰りに、アメリカ回りで帰ってくるつもりでいた。ところが、後から父を追ってヨーロッパに行った母が懐妊したので、予定を変更して、日本へ直行した。その船が香港と上海の間を航行しているときに、青山の病院が燃えたという電報が入った。
大正十三年の、もうすぐお正月という暮れもおしせまった頃に、敷地内の一部の家屋を残して焼けてしまった。
病院が火事になったのである祖父が、父は歌詠みだし、帰国すれば、どうせ仲間を集めて歌会のようなことをするのだろうと考え、それにはある程度大きな部屋がないと困るだろうというので、病院の敷地の一角に、父を住まわせる二階家を建築した。

 

子どもの数が減り一人っ子の家庭も多くなっていこう

しつけという点において大きなマイナスなのです。ほとんど完成間近のところで火事が起こった。天井の一部が燃えたが家の本体は残った。とりあえず応急修理をして、一家がそこに住んだ。それによって、わたしとって、初めての家族同居の生活が始まった。
今までずっと父がいなかったのに、今度は仕事以外には家にいる。第一、朝食時には必ずいるわたしが父親の恐ろしさを感じたのはその頃からのことだ。一緒に食事することの辛さ、恐ろしさというか、しょっちゅう小言を言われていた。父の小言は箸の上げ下ろしなどを干渉するのではなく、日常の基本的な小言だった。
もっともその頃のわたしは内向的逃避型の子どもで劣等感の権化みたいであったので、を恐れて、逃げまわっていたのかもしれない。
よけい父それまで全くのひとりっ子で、しかも両親がいなくて、一種の完全な放任主義のうえ、周囲の者も甘ゃかすし、しかも、わたしを育てた婆やというのがたいへん大甘で、今から考えるとぞっとするような育児をやられた。

大学も付属嫌いなものは一切食べさせないとか、そういう超過保護的な状況にあったわけであるそういうことで父から見れば、いくら叱っても叱り足りない息子だったのだろう。
1弟妹が生まれることで過保護から脱却間もなく妹が生まれた。寒い朝で、婆やがその赤子を抱いてやって来て、あたためてやってくださいねと言ってわたしの布団のなかに入れた。すえた乳のような臭いが、その小さな肉のかたまりから匂ってきて、わたしの鼻をやわらかく刺激した。衣服を通してかすかなぬくもりも感じられたわたしは九年間という間、のであった。
ひとりっ子でいて、その晩はじめてきょうだいというものを実感したわたしはほんとうに長い間、ひとりっ子として育ってきた。当然のことだが、きょうだい喧嘩の味を知らずに育った。

母乳語に専念しなくてはならない段階の赤ん坊のとき

母親への依存度が高い子ほど危険一時期しき父は病院の再建に忙殺されていたので、わたしの前にはほとんど姿を現わさず、母もまたその性格と環境の故に、ほとんど姿を現わさなかった。たまに現われてもわたしを身体の小さな大人として扱い、すべてに先手を打ち、干渉した祖父は火災の打撃で、まったく気落ちし、病院の再建の苦労はすべて父の双肩に重くのしかかっていた。おまけに、ヨーロッパで三度の食事を二度に減らし、大いに倹約して苦労して買いこんでは日本へ送っていた本が火をかぶったり、焼けてしまったことなどもあり、父の機嫌はきわめて悪く、わたしの頭上にも毎日のようにカミナリが落ちた。父親というものはこんなに恐ろしいものかと思った。小春日和にいきなり竜巻が襲ってきたようであった。
父はどうやら、留学が終わったあと、大学に残り、教職、研究の道を進もうとしていたらしいふしがある。

子どもたちが見て育つ

母親が受けるその理想も、病院の火災でご破算になり、研究どころか、父にとって最も苦手な、病院経営といういわば経営者の道を歩くことになったことへの不安と不満、毎日の世俗的な仕事の堆積が文学活動に大きな障害になったことなどが、父の気分を平穏と反対の方向へ引っ張った。さらに金が足りなくて、高利貸しからも借金をし、その返済に苦しみ、ときに差し押えの脅迫を受けるなどの苦難の道を歩むことになる。大正の末頃、父は自らを神経衰弱と診断し、とみに睡眠薬の量がふえた一方、婆やがわたしの身近にいる。


母親への依存度が高い子ほど危険一時期しき 母親になるということはすばらしいことです。 子供が立ち上がると私の方をむいて

母さんが言いきかせようとしていることのほとんど

母さんが四五パーセント

子供がトイレの窓から中をのぞいている

第三番目に内閉性性格というのがあげられるが、これは別な言葉にする父はよく籠るということを言った。籠るというのは、が、書斎で冬でも蚊帳を吊るという現象になった。
内閉性性格の特徴である。
その現われ蚊帳といっても、蚊を防ぐ意味だけでなく、外界と自分を遮断するという意味もあって、書斎にごつい昔風の鉄製のベッドを持ちこんで、その上に年がら年中蚊帳を吊って起居していた。またベッドの横に、北窓に面した板張りの床に三畳ほどの畳を敷き、机を置いて勉強をしていたが、その上にも白い紙の蚊帳を吊っていた。いわゆる紙蚊帳というやつである。その中に籠るわけである外界と遮断して勉強に専念する雰囲気づくりをしていたのではないかと思う。

小学校へ入れることにしました。

父は基本的には人嫌いで、人との接触をあまり好まないタチの人間だったのではないかと思われるのだが、病院長という職掌柄、そうもいかず、精一杯努力して人とつき合っていたようであるそのうっ積したものが、時々外に向かって爆発したのではあるまいか。
父と子のつき合い方には一定の公式はないと思う。父親の子に対する態度は、に接するのではなく、子の性格によって決めるほうがよいのではないだろうか。
自分の性格のまま明るくあけっぴろげで、社交型の子には、親はこれまた、あけっぴろげでつき合うのがいい。

 

しつけに関心を持ちよくなるのではないでしょうか。

母さんは知らん顔。むずかしいのは内向的、小心、非社交的、堅苦しいコチコチ型、神経質な子への対応だ。話をするにしても、ひと言、ひと言、相手の反応を見ながら、次の態度を決めなければならない。
社交型には皮肉っぽい言い方や、ジョークはいくら言ってもかまわないが、いま述べた性格類型の者へは極めて慎重を要する。ちょっとした、つまらぬひと言で深く心が傷つくこともあるからだ。

父の叱責と大甘な婆やの間で育ったわたしの子ども時代

-家にはほとんどいなかった父わたしの幼かりし頃、父の印象はまったくないといっていいほどである。
わたしの前にいなかったからである。
なぜならば、物理的にわたしの生まれた頃は、巣鴨病院に勤めていた。

子どもが明らかに身を固くする。病院の院長はわたしの祖父で、養子にきた父は、大学を出て、東京府立巣鴨病院というのは有名な東京都立松沢病院の前身で、東大の精神科の教室がイコールその病院だったので、東大精神科の教授と院長とは同一の人であった。わたしも若い頃経験があるが、当時若手の医者だった父は、しょっちゅう当直をやらされたはずだ。先輩からやってくれよと言われればイヤだとは言えない立場なので、家にいるより当直のほうが多かったのではないか。
また、養子だった父は、わたしの想像ではあるが、家にいるより外に出ているほうが心が安らいだのではなかったかと思う。

子どもに贈るものです。

しつけるのではなくすでに歌詠みの仲間入りをしていたので、文学仲間との交流もあったわけであるそういう仲間が家に訪ねてきて部屋を使って何をやろうというのは、どうも具合がよくないそこで巣鴨病院に来てくれと言ったり、当直の晩に当直室で仲間と話すということが多かったのであろう。それ故あまり家に帰ってこなかった。
もう一つ、わたしが生まれた年に、巣鴨病院から長崎医専に転勤を命ぜられたという理由もある前任の教授がアメリカ留学中に病気になり、教授の任に耐えられなくなったので、急遽、父が後任として、白羽の矢を立てられ、長崎におもむいたのだ。

子どもの言い分を何も聞かずに叱る

子供は抗議を試みます。大正十年まで五年間、父は長崎にいた。わたしは病院の敷地の中の一角に婆やと二人で住んでいて、両親と別の暮らしだったのでほとんど父の印象は残っていない-幼い時の父の印象は机に向かった後ろ姿わたしは四歳のとき、母に連れられて長崎に行き、向こうで何カ月間か両親と一緒に生活をしたそのとき、初めて、父の印象がわたしの網膜に焼きついた。ただし正面から見た父ではなく、後ろから見た父だった。テーブルの前に坐って、何かものを書いている姿だった。大学の仕事のほかに地元の歌詠みとの交流もあったし、家では、ほとんど勉強していたから、自然、後ろ姿しか印象に残っていないのである長崎時代に父が住んでいた家は原爆にもやられず、と、その家を訪問するのがならわしみたいになった。
長らく住んでいるまだ残っている。今でもわたしは長崎に行く現在その家は寺才元さんという学校の先生がそこの階段が非常に急で、わたしは最上階からまっさかさまに墜落したことがある。


しつけるのではなく 父親がピシャッと抑えたあ 先生から言われるとピリリとした。

先生との相性が悪い場合の工夫それぞ

母親が立っててんで親のいらだちを相手にせず

そこへ行ってリヤカーを一週間ばかり貸してもらっておいて、いざとなったら、そのリヤカーを使うことにしていた。
ある朝、陣痛が始まったので国電で11駅ぐらいのところを、電車に乗せて病院へ連れて行ったすぐとって返して、リヤカーにふとんを積んでまた病院へ行った。そして、女房の里へ知らせに行く。当時は電話も直通ではなくて、申し込んでから何時間もかかるので、直接行ったほうが早かった。生まれそうだと知らせて、病院へ戻ってきたら長男がすでに生まれていたあんまりあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、てんてこまいだったから、しいとか、よかったとか、そういう印象はまるで残っていない。



母さんもたくさんいます。
子どもが生まれて嬉今のように、でもあろう父親が会社を休んで、病院に行き、枕元にいてやるようなことはできなかったから退院して家に戻ってくる。赤ん坊がヒーヒー泣いても女房の母乳が出ない。今の人には考えられないだろうが、牛乳を手に入れるのに、医者の証明が必要だった。それが正規のルートだが、それでは足りなくて、埼玉県の山奥まで行って、山羊のお乳を譲ってもらって、補充したこともあるお腹がすくから、今の子どもよりもはるかによく泣く。お袋や妹は、神経衰弱になってしまう
とか、眠れないとか文句を言う。そのたびに女房は恐縮する。そんなことで、みんながギスギスしてくるそのようなグチを疎開先の父への手紙に書いたところ、子どもは泣くものだ。

  • 母さんに打ち明けたのです。
  • 子どもに語りかけている
  • 育ててゆくという意味だからです。

母さんの頭の中はもう

子どもを守ろうとするのは自然なことです子どもの泣き声は天使の声と思えという手紙が女房のところへ返って来た。田舎の父のところへ親切な人がお米やいろいろな食べ物を送ってくれる。それをそっくり、こちらへ寄こしてくれた。ただし、
これはみちこ女房のために送るんだと言ってくる。それはありがたいのだが、ほかの家族のことを考えると女房はよけい小さくなってしまい、ただ恐縮するのみであるそんなことで、長男は一番苦労して育てた。
しつけるのではなく

母親が視界から消えたとして-環境の影響で性格が逆に出たわが家の長男と次男家もこれではあまりにも狭いし、夜だけでも開業しないと食べていけないので、母もいろいろ探してくれ、世田谷の一画に別な家を見つけて、そこへ入った。そこは父を引き取れるくらいの余裕があったので、父に上京してもらった。
医局員が開業をしてはいけないという原則を、特別に許可してもらって夜だけ開業したのだが怪我でも骨折でも何でも診た。当時は精神科でござい、とおさまりかえっているわけにはいかな
かった。耳鼻科でも、眼科でも何でもやった。近所の家々のホーム·ドクターみたいになって、往診のときは、雨の中、長靴はいて歩いて遠くまで行った。やっと自転車を手に入れたときは大騒ぎだった。医師会でくじ引きに当たったのだが、ロールス·ロイスでも買えたような嬉しさだった。

子どもへの虐待といってもいいであろう。

その家は小さな庭があったので畑にして、トマト、ナスなどをつくっていた。畑仕事をしていると、患者さんが来ましたよというので、手を洗って診察したという時代だった。
母は母で事務的なことをしていた。病院の焼跡の処理とか、財産税というのがあり、現金のない者は物で納めなければいけないという物納という制度があった。青山の病院近くにあった家作を国庫に納めることになった。その家作に家賃の集金に行くと、「こんなオンボロな家、大家が何も手入れしてくれないから金を払う必要はない」などと凄まれてスゴスゴ帰ってくるといういやな思い出もある。その家を国庫に納めたりで、母も何やかやと出歩くことが多かっカカi,た長男が這うようになっても、家に誰もいないから、危なくて仕方がなぃ。女房も配給などで出ていくことが多かった。そのとき母が何をやったかというと、帯の一方を柱に、縁側から落ちない程度の三、四メートルの長さに、赤ん坊を結んでおいた。これは一見合理的だが、女房が後で青くなっていた。這っているうちに帯が首に巻きついて、窒息でもしたら大変なことになりかねないからだ。
母さんが言いきかせようとしていることのほとんど

母さんのことばをお手本にしてことばを身につける。

育て方は決して間違ってはいうちの母は平気でそういうことをする。普通の祖母であったら、抱っこしてあやしたりするのだが、面倒くさがって、帯で結んでしまうのだ。今から考えてみれば、ずいぶん危険なことばかり横行していた。
長男というのは例外があるにしろ多くは蝶よ花よで育てられるから、おっとりして、のんびして、大人の相が出てくる。しかし、弟はその反対に育てられることが多いから、すばしつこくて、目先が利いて、冒険家で、暴れん坊で、積極的になる。これが普通なのだが、わが家では反対なのであるたいじん長男は活動的で、怪我ばかりしていた。

子供が立ち上がると私の方をむいて

母親が喜ぶと思ったのだなと。

子どもが将来お金で失敗して

まあしょうがないやとわれわれはよく言うが、父には絶対そういうところがなかっただから全身全霊で一つのことにぶつかることにもなる父と一緒に食事をしていると、すぐにガリッと石を噛む。昔はよくご飯の中に石が入っていた同じご飯を食べていても、こちらは噛まない。父だけがガリッと噛んで烈火の如く怒る。ご飯を噛むのも全力投球なのだ。われわれみたいにいい加減に噛んでいるのではなくて、決死の覚悟で噛むという感じだ。だから石を噛んでしまう。

小学校六年を終えている子でそれに対して

そしてカッと怒る。炊事の婆やが叱られてメソメソしている姿が今でも目に浮かぶ。
また、父は一日の生活が判で押したようで、定のパターンで終始した。
朝起きてから寝るまで、特別なことがないかぎり!
もろはだ朝、きちんと起きて、洗面のときは浴衣の洗いざらしたような寝巻きを諸肌に脱ぎ、体を拭く。真冬でも決まってやっていた。これはヨーロッパみやげだ冷たい水でかたみ父は三年間ドイツのミュンヘンで生活していたことがある。当時の歌に街上を童子等互に語り行くペン尖1つ五十万マルクするよというのがあるが、いかにインフレが物凄かったかがよくわかる。ドイツもオーストリアも第一次大戦の後で、敗戦国でもありインフレがもの凄くて貧乏のどん底みたいなときだった。もともと向こうの人は日本人ほど風呂には入らないが、当時はとくに風呂に入ることは贅沢なこととされ、冷水で肌を拭くのがせきのやまだったらしく、それを父は真似たわけである。

 

母の答えはいつも同じ。

先生もまた能力が低い父は、これを一生つづけた。
また父にとっては、食事に絶対に欠かせないのは味噌汁で、味噌に関してはことのほかうるさかった。前の晩、味噌汁の具を炊事の者にさと芋がいいとかネギにしろとか、いちいち注文した。
-自分の肉体を必要以上に気にする過敏さ夜寝る前に必ず家の者がやったことは、父が慢性の便秘だったので、硫酸マグネシアという下剤を水で溶いて持っていくことだった。飲むと朝起きたときにうまく通じがあるというので、毎晩寝る前に飲むことを習慣にした。
酒も若い頃はずいぶんと飲んだが、度を越すことはなかった。父が酔っ払って醜態を見せたことは一度もない。タバコもかなりのヘビースモーカーだったが、長崎医専時代にスペイン風邪にあって、そのあと微熱が出たりして治りがはかばかしくなかったのをシオにピタッと止めた。

子供にしたく自分の体を考えてのことだったと思う。これがちょうど四十二歳の時である。これも神経質のおかげではなしかと思うまた、文学をやっている人間にもかかわらず、他の文学者のように徹夜するというようなことは一切なかった。徹夜をしないというのは、もちろん本人が医者ということもあるが、神経質のなせるわざではなかったかと思う。自分の肉体を必要以上にいたわっていたということだ三十の声を聞いた頃から、日記とか文章とか、人さまに喋った言葉に、老いという言葉がさかんに出てくる。

学習全体へのモチベーションが上

体験をした時他にも疲れるとか、風邪ひきやすいとか、眠いとか、そういう言葉がよく出ている。自分の肉体に対する関心が異常に強いのである父は体をいたわるという点から昼寝をよくした。体質的にも非常に敏感で、医学的にいえば、自律神経過敏症といっていいだろう。たとえば朝から頭痛がする、きょうはカミナリが鳴るぞと言うと、午後には必ずカミナリが鳴る。カミナリが鳴る前兆である気象の微妙な変化も体に感じた
のだろう。
また、勉強の後に疲れてちょっと横になる。そういうときに人がくるのを極端に嫌う。

子供を持っている親の世代

子どもの気持のゆるやかな承認だけをしていてやる。新聞記者などが来ると、お手伝いさんが、今お留守ですとか、昼寝なさっています
昔の人は今のようにきちんとアポイントを取らずに、いきなり来ることが多かった。
編集者やとか言う。
それに、狭い家だから、下の玄関で
どうしても会いたいというのが聞こえる。相手はなかなか帰らずに粘っているわけだ。二階でそれを聞いている父はイライラする。ついにはムラムラしてきて、下へ降りていって、帰れなどと怒鳴って追い返す。とんだ居留守ということになるが父はそんなことは念頭にない。怒りの感情だけが頭の中を占めているのだ。だが、あとで電話をかけてきみ、すまなかったななどと謝ったりするのだ。
-人間嫌いの面は内閉性からきていた父の性格の特徴として、と非社交型となる。


体験をした時 母さんもたくさんいます。 子どもが小さいころからいろいろなことを学ばせいろ

母さんもたくさんいます。

勉強にして

子供たちの半分はカギツ子であるわけだ。

この子は牛乳を飲ませると、すぐ吐くとか、牛乳を飲ませると、すぐ下痢するので飲ませませんという母親がいる。わたしの経験でも、牛乳はたしかに下痢することがあると思う。だが、牛乳というのはカルシウムの補給に大事なものであるから、下痢をしてもどんどん飲ませているうちに、体が慣れてくるものだ。ところが、今の母親は子どもを大事にしすぎるのか、自信がないのかこれが実行できない。
飲ませなさいとわたしが言っても、母親は言うことを聞かない子どもがかわいくて下痢をするのをみすみす飲ませるのかと反発するのが今の母親だ。では牛乳を飲ませなければ、他にどうしたらよいか、という対処の方法は何もない。
確かに、嫌がる子どもに、ただ牛乳を飲め飲めと言っても、これは飲まない役割がある。父親が子どもの目の前でしょっちゅう飲んでいればいい。しかもうまそうにだ。子どもというのは、何となく大人の真似をするものだ。それをせずにガミガミ言っても無駄というものだ。
こに父親のわたしが子どもの頃は、牛乳が嫌いで、トマトが大嫌いだった。どうしてもトマトを食べないといって、家の中から締め出されたこともある。

経験が基礎として必要なのである

そうなると、こっちとしてはいよいよ反発してしまう。それよりも、両親が眼の前でどんどん食べればいいのだ。牛乳をガブガブ飲めばいいのだちょっと時間をかけて真似をさせればいいそれと、思春期になってくると、異性を意識しだすので、これを食べないと背が伸びないとか、肌がきれいにならないなどと言って、嫌いなものを食べさせるチャンスでもある。何ごとも工夫しなければ前進はないのではないか-父親は反応過敏症にならない強い心を持てわたしは本来、牛乳はあまり好まなかった。だが、近頃は年を感じるようになり、いちばんこわいのは骨折だと思うようになった。ある年齢になると、ひとたび骨折すると若い者とちがってなかなか治らない。またちょっとした骨折が引き金になって、ほかの病気をひき起こしたり、ほかの病気をさらに悪化させたりする。
そこでわたしは数年ほど前から牛乳を多くとることを始めた。あまりうまくない。しかも下痢をする。だがわたしには信念があるからかまわずどんどん飲んだ。不思議なことに1週間ぐらいすると下痢は全くしなくなった。

 

教育を考え哲学をかじり政治に関わりするなど人生

しつけについてもね。おまけに牛乳がうまくなった。だんだんふやして今は一日に四、五本は飲む。外来の診察時間中にもお茶代わりに牛乳を飲む。寝る前にも11本は飲む。旅に出てホテルの朝食にもコーヒーや紅茶はやめて牛乳を飲む昔、ホテルの朝食に牛乳を飲んでいる人をブベツのまなこで見ていたのだが、今は人からブベッの目で見られる立場になった。放送局などでも、
お飲み物は?と聞かれれば、以前はコヒーと言ったのを今は胸を張ってホット·ミルクと叫ぶ。わたしはまだ冷たい牛乳をがぶがぶ飲むことはせず、一応あたためて飲んではいるが、そのうちチャンスをみて次第に冷たい牛乳にも挑戦しようと思っている。
要するに、一時の反動の時期を乗り越えればいいのだ。これには勇気が少しおおげさだがいるが、多くの世の親はその勇気がないのだ。

体験は実生活で必ず役に立つでしょう。不眠症の人が入眠剤をやめるのがこわくて、なかなか泥沼から抜け出せないでいるのも、要するに勇気がないからであるとにもかくにも、子どもの言うことにいちいち反応し、その反応をあらわにすることがいちばん悪い。しかも、その反応が最も強く出やすいのは母親であろうから、ここに父親の役割があるのではないか。父親は子どもへの安易な反応への防波堤の役目を果たさなければならない。そのために、父親は母親へニラミをきかすだけの自信と強い心を持たねばならぬのだ。
-子どもの甘えと親の期待過剰が家庭内暴力を引き起こすいくつになっても子は親から離れず、親は子を離したがらない親は子どもの一挙一動に一喜一憂する。一見まことにうるわしい情景だが、どこかおかしい。自然に反している。厳しい世界に生きる生物の姿ではないHigh Emotional Family - ハイ·エモーショナル·ファミリーといって、情緒過剰家族と訳しているが、この情緒過剰家族の中では、精神分裂病の再発が多いという貴重な報告が長崎大学精神神経科から出されている。

子どもにビールを飲ませたりする親がある。

先生から言われるとピリリとした。これは日本だけでなく世界的な調査の結果であるグローバル大学の入学試験に母親がついて行くという話はさきほども述べた。かなりの年月がたつが、すっかり定着したかのようにみえる話題である。大学のみならず、そういう人間が社会人になってもこの関係は影響する。こうした家族は情緒過剰家族と言える。
複雑な人間関係や、複雑な機構をたくみに生き抜き、勝ち抜いてきたビジネスマンが、自分の属する組織団体に適応し過ぎて、本来の自分の姿を見失い、心身の異常を訴えることがある。これを過剰適応というが、こういう人間には、情緒過剰家族の中で育ってきて、過剰密着の親と子の関係を持つ者が少なくない。

子どもたちに対する

母さんの後ろに隠れてしまいます。初老期を迎えても、こういう
精神的離乳のできない不幸な人も案外と多いこのような関係の前面に登場しているのは母親だが、その母親の背後に必ず父親の姿が見えるのだ。父親が母親に多かれ少なかれ何らかの影響を与えている。
甘えに支えられた親子関係を世人は過保護という言葉で片づける。なるほどその通りであるが狭義の過保護だけで子どもは家庭内暴力にまで至らない。
単なる甘やかしだけでなく暴力への道程には必ず過剰な期待が存在している。もっと具体的にいえば、過剰なる期待が過度の干渉を生み、その干渉が子どもの暴力に発展すると言っていいと思うのだ。
祖母を殺した早大高等学院生、惹き起こした開成高校生の場合、激しい家庭内暴力の末、父から殺され、さらに母親の自殺までもいずれも親の過度の干渉
が底流に横たわっていた。


先生から言われるとピリリとした。 子どものためによかれと思って 父親がピシャッと抑えたあ

しつけるのではなく

子どもとスキンシップをとっているほど

人間は適当に取捨選択して、どんどん変容していく。
こにのめり込んでいるということはない。
いつまでも、あるところにとどまって、そ内心ハラハラしたこともある。長男が鈴鹿のサーキットにまで出て、自動車レースをやったときのことだ。いつ命を落とすかもしれない危険なスポーツだ。ところが、今はマイカーの運転ぐらいはするが、カーレースの話題すら出ない。テレビでレースの放送をしていても、昔ほど関心を示さない。自動車のことはもう卒業している。だが、こういうことも本人にとっては決してむだではなかった。車の知識の広がりだけではなく、その世界の人たちとのつながりができ、交際範囲も広がり、本人にもさまざまなプラスになる。
わたしはある航空雑誌に、長年にわたって定期的に原稿を書いている。常連執筆者であるのに、このごろはその雑誌の忘年会にはやはり原稿を細々と書いている次男だけが呼ばれ、わたしには声がかからない。次男が、案内状が来ましたかと言う。わたしはポカンとして何だと言ったら、航空雑誌の忘年会のことですよと言う。



子どもが小さいころからいろいろなことを学ばせいろ
わたしには来ないで、伜に来る。これは半面寂しくもあるが、いやな気持ちはしない。そんなとき選手交代か、とつぶやきながら寝床でその航空雑誌をパラパラ読む。案内状が来たって、どうせ忙しく出られやしないからちょうどいいや、などと考えながら本を読む。そして心は安らいでいる
子どもに対して最低限望むこと-しつけはまず家庭の雰囲気が大切「父母の恩は、山より高く、父母の恵みは海より深し、深き恵みにむくゆるは、厚き心をいたすべし」亀谷行著
和漢修身訓
「人には子という者あって、老身の時、たすけとして孝の道を教えて、老に仕えしむるの備とす」
石上宜続著
卯花園漫録
「即ち国の本は家にあり。良家の集る者は良国にして、国力の由て以て発生する源は単に家にあって存すること疑うべきにあらず」福沢諭吉著日本男子論父母に孝、兄弟に友、くつかを並べてみた夫婦相和しという教育勅語を思い起こすような、家庭道徳を説く言葉のい戦前ならいざしらず、今の子どもたちが学校などで、こう教えられたら一体いかなる反応を呈するだろうか。

  • 子どもにももしも将来そして自分
  • 子どもの積極性や意欲は育ちません。
  • 成績はぜんぶ普通。

子どもを抱っこする場合

子供であろうが大人であろうクスクス笑い出す子どもがいるだろうし、ポカンと口をあけたまま、大人は何を言いたいのだろうと、不審顔をする子もいるだろう。今の子どもは上下関係とか権威に対して畏怖する気持ちがほとんどないので、昔のような文句は言わせない式の家庭道徳のしつけはできない。親に都合のいいことだけを、強く押しつけようとすれば、子どもはただ反発するだけだ。
わが家の場合、しつけや礼儀作法ということでは、最低限には気を遣ってきた。その根本にあるものは、他人様に迷惑はかけない
ということだ。細かいことは女房が気配りをしているので、わたしがこと細かに注意したりすることはない。家庭教育というものは、何も肩を怒らせてやるものではない。
子どもが小さいころからいろいろなことを学ばせいろ

子どもが読書の素晴らしさを実感できれば砂に水がしみこむように、子どもの柔かい頭に自ずとしみこむような、家庭の雰囲気が大事だ-父親は子どもに干渉しすぎず、保護しすぎずの態度で接するわが家の長男は決しておとなしいほうではなかった。万事に積極的で、実利的で、自ら運命を開拓するために前進するタチで、小学校から福沢諭吉先生の流れをくむ教えを受けたからよけいそういう人生の生き方が固まった。次男は、少年時代、宗教的にしつけの厳しいG校で薫陶を受けたので、はなはだ行儀がいい。自らを犠牲にしても人を助けるという教育を受けている長男の場合は、勇ましすぎて、親にたてついたことも再三あったから、こちらも怒ったり、怒鳴ったりもした。

子どものファンがいることを考え

今考えてみると、わたしが悪い場合も多かった。わたし自身が苦労して、辛い時期に、子どもを必要以上に怒鳴ったり、叩いたりしている。残念ながら、親の感情がそういうことをさせると思う。親も神様ではない。
体罰は、長男にいちばん多く加えられているだろう。下へいけばいくほどわたし自身の気持ちも落ち着いてきた。したがって、末の三男がいちばんおっとりして、甘えん坊で人が好い。親から叱られた度合いが一番低いからだ。反面、あまり無茶をせず、穏やかすぎるわたしのきょうだいも全く同じで一番父をこわがったのはわたしで、お父さまという評価に変わってくる。
母親になるということはすばらしいことです。

小学校一年位

母親が宿題末っ子になると
やさしいわが家の三男もウチの伝統である冒険心はあると見えて、家にいるより空を飛んでいるときが多い高校のときから大学までグライダーでとおしてきたが、いくら飛行機が好きな父としても
グライダーに乗れとはひと言も言ったことはない。正直なところハラハラしている。親父見にこないかと誘いをかけられたが、一度も行ってやったことはなかった。わたしも飛行機は嫌いではないから一度見に行ってやってもいいとは思ったが、わたしが何を聞かずとも、外でどんなことをやって、どんな生活をしているのか、よく話してくれるからそれで充分という気持ちがあったのかもしれない。
わたしは子どもに無理な期待はしていない。ごく平々凡々に生きて、結婚をして、子孫をもうけて、後世にバトン·タッチしてくれればそれでけっこうだ。格別、出世してほしいとか、ノーベル賞をもらってくれとか、そんな期待はさらさらない。

母さんはその後真央ちゃんに対して腹が立つという

成績が不振であれば

ただ努力して、何事も根気よく懸命に生きてくれれば、それでいい。
今の子どもたちに襲いかかっている大きな問題は、親の期待過剰だ。今は子どもの数が少なくなったから、無理からぬことなのだが、しかし、すぎた期待過剰が子どもから痛いしっぺ返しを受けている現実がある。
平々凡々に、なんとか生きてくれればけっこうというくらいの気持ちで、大した問題は起こらないはずだ。
親が子に接していればところが、今の日本は激しい競争社会なので、親がのほほんとしていたら、子どもが落ちこぼれになってしまうという不安から、親がいやがる子どもの尻をたたいているという感じである。この気持ちが強くなると過保護、過干渉に発展してゆく。
わたしの場合、子どもが、この人のところには紹介がなければ行けない、どうしても会わなければいけないときには、紹介状を持たせてやるとか、電話をかけてお願いする程度の援助はしてやる。
しかし、初めから、子どもが頼みもしないのに、おれが紹介状を書いてやる電話をかけてやるから行きなさい
などとはもちろん言わないし、また言いたくもないどこからが過保護、過干渉になるかという線は、あくまでも親が決断すべきであろう。



子どものためによかれと思って
プラスマイナスのバランスをとるようにする。誰でも自分の子どもには盲目になる部分もあるから、このへんがなかなかむずかしいのかもしれない。傲慢にならず謙虚な目を持つように、親も子も絶えず自戒する必要がある。
-子どもに対して何ごとも百点満点を望むなわたしは父親としては、及第なのかどうかまだわからないらいのところをウロウロしているところだろうか。
点数をつければ五十点から六十点く人間の本当の価値は、死ぬ直前にならないとわからない。棺桶に足をふみ入れたときに子どもたちが判断すればいい。だが俗人はそういうふうに考えられないから、ついグチが出たり、不安になったりするのだ。

  • 教育化してき
  • 幼稚園の年長の時
  • しつけの主役は親

大学に入学して

勉強を志して夜間しょせん、人間は死ぬのであるから、死んでしまえば、いから、あまり神経質にならなくてもいいのではないか。
後は野となれ山となれで、何もわからな子どものことをただハラハラと気をつかい、このままでは死ねないと言っている人がよくいる。そのため、死ぬことがひどく恐ろしい。それが不安神経症のもとになる。やれ動悸がする、頭が痛い、体がどうとか、いろいろな肉体症状を持つことになる。ノイローゼには、死にたくない.死ぬのが怖いという自分の肉体に対する恐怖からくるものがあるいつ死んでもいい、死んでしまえば子どもたちがどうなろうとわからない、ノイローゼなどにはならない。
母親への依存度が高い子ほど危険一時期しき

母さんが心配しますと悟りを開いた人は百点満点の親などむろんこの世に存在しない。外見はたいへんいい家庭に見えても、少し立ち入って実情を知ると、人に言えない悩みがたくさんあるものだ。この人にして、この悩みがあるああこれが人生だなと思う。
大邸宅に住み、金はあり余るほどありとみえる、社会的地位の高い人でも、こんな悩みがあったのかという人がたくさんいるものだ。とにかく、百点を望まないことが、いちばん安全な生き方だ。ただし、ベストを尽くさなくてはいけない。ベストが無理なら、とにかく出来るかぎりの努力をしなければならない。
受験生に、「志望校に無理をして入らなくてもいいではないか、気持ちをゆったりと持て」と言うと、それでは勉強する気持ちがなくなると反撃してくる。

しつけが身につい人です。

だが、初めから何が何でもと固くなっているから実力を発揮できない。落ちたと思って、合格通知がくればオンの字だと思うくらいでちょうどいいのだ。
わたしの外来患者にも、東大を出て、就職もできない青年が来る。こちらがしゃべると、すぐでもとか、しかしの言葉がひんぱんに出てくる。要求水準が高すぎて、何ごとも満足できないのだ。卒業してから三、四年たってもまだ就職できない。
海外協力隊でアフリカのある国に行っても、逃げ帰ってきてしまう。
なぜ逃げ帰ったのかと聞くと、文明がないと言う。
「当り前だろう、文明がないからこそ、あなたが行くのだ。その気持ちを解消しないと就職できな
い、そのうち野たれ死にするぞ」と言っても、暗い顔をして、理屈ばかりこねている。
母さんもたくさんいます。

子供たちを評価せざるを得

子どもたちも!親は期待して東大まで出したのにこのザマだ。親の気持ちはどんなだろう。親の期待が大きければ大きいほどショックも大きい。
親の立場もまた、要求水準が高すぎないほうが安全だ。
し、親の嘆きの原因になる。
しばしば、親の欲目は子どもをスポイル

父親は子どもの進路にどういう態度をとるか

-親より他人の説得が効くこともある子どもたちがわたしのことをどう考えているか、特別に考えたことはない。ある時期は、怒鳴ったり、叩いたりしたこともあるが、それはそんなに長い期間ではない。むしろ話のわかるオヤジ放任しすぎた父親、とわたしを見ているかもしれない。
事実ああしろ、こうしろなどということはほとんどなかった。子どもを痛めつけたのはわたしの中年期の最も忙しく、最もストレスの多い時期であった。

父親がピシャッと抑えたあ

先生にきつく言わ

両親をも大切にすることです。

われわれはいまや、干渉のし過ぎとして考えなければならない時代となった。
教育を母親任せにしない-教育ママの増加が登校拒否児を生み出した生徒、学生にとって生活の中心は学校である。学校は勉強の場であり、人間のふれあいを学ぶ場であるのだが、これから逃避しようとする力が常識の線を越えると、登校拒否のような反応が現われる。
この登校拒否が世の人びとの話題にのぼるようになったのは、昭和三十年代からだ。わが国の経済が高度成長し、それにつれて個人の経済が安定してくると、子どもへの教育熱が急激に高まって、競争社会に対処すべき危機感、不安感から、いわゆる教育ママなるものが生まれてきた。その教育ママの増加と登校拒否の子どもたちの増加とは、おおむね並行関係にある。
登校拒否の典型例を示してみよう。

先生によって対応は大きく異なるそうです。

K子は小学校三年生のとき、担任の先生が交代したのをきっかけに、学校で全く口をきかなくなってしまった。そのうえ、自宅から学校までの登校歩速がノロノロと遅くなり、時間がかかるようになった。そこで父親は遅刻することを心配して、車に乗せて学校まで連れていったりした。母親も、担任が今までとちがい、厳しい中年の女の先生なので、K子が先生に慣れにくいのだと思い、なんとかなじませようと、日曜日にK子と共に先生宅を訪問したりしたこともあったが、K子はいっこうに先生になじもうとしなかった。

 

父親が写っていたのである。

子供の服装を派手担任は、学校でのK子が発表はもちろん、言語的応答を全くしないことに対し、しばしばどうして口をきかないの?黙っていてはほかのお友達に迷惑がかかりますなどと言い、注意や叱責を加えていたそのうちK子は、朝になると腹痛を訴えて登校を渋るようになり、とせず学校を休むようになった。
やがてどうしても登校しようすると、担任は母親に対し、「家庭ではK子が自宅に居づらくなるようにもっと厳しく当たりなさい。そうすれば学校に来るようになります」と助言したので、家族はその助言に従ってK子を強く叱ったり、叩いたりして、ただひたすらに登校するように仕向けていたところ、K子は登校するようにはならず、家族とも口をきかなくなってしまった。

母の膝の上で揺られて帰った思い出などこの例は東京学芸大学の渡辺位さんが紹介しており、問題となるのは子どもの不安を表面的にしか把握できない教師の態度と、主体的な子育てを出来ない母親にも、多くの責任があるのでないかと言っている。
-登校拒否は親への復讐の現われ都立教育研究所の平尾美生子さんの紹介分析している例を、もう一つあげてみよう。
中二男子、父親四十七歳、会社員、母親四十二歳。小学校三年の頃から、月に二、三回は学校で何かいやなことがあると休み、母親に送り迎えしてもらうことがよくあった。中学に入ってからは、週に一、二回は頭が痛いとか、友達にいやなことをいわれたとかの理由で休んだ。そのたびに、母親は本人の欲しがるレコードなどを買い与え登校させたが、それも長続きせず、欠席日数が次第にふえていった中二になって、母親は担任教師から甘やかしている態度を注意され、それで登校と交換条件の品物を制限し始めた。その頃より、母親に暴力を振るい出した。品物を買わないと、母親をなぐったり、ガラス戸を壊したりするので、つい母親も買わざるを得なくなり、高価な物へとエスカレートしていった。自分の思い通りになれば機嫌よくテレビやレコードを楽しみ、夕方になると自転車を乗り回したリするこの子どもは幼少時から両親に甘やかされて育ち、欲しい物はすぐ買ってもらい、自分の思い通りの生活をしていた。

小学校の通知票はい

母さんはその後真央ちゃんに対して腹が立つというとくに小学校三年まで祖母が同居し溺愛された。そのため、自己中心的で内弁慶的な性格となり、友達とはうまく遊べず、仲間はずれになるとすぐ母親に助けを求める状態であった。この子どもはカウンセリングの中で、「自分一人では何もできない人間になったのは、親のせいだ。もっとお父さんが怒ればよかったんだ」とも述べている
子どもが登校拒否をして、母親がオロオロしたりヒステリックになるのはある面では仕方ないともいえる。そんなときに、父親が母親に同調してはいけない。登校拒否児の父親というのは、子どもの教育は母親任せといった無関心、消極型が多く、父親としての責任をとらない傾向がある。登校拒否には親を困らせるためという一種の子どもの親に対する復讐の心理があるとの時期の拒否的態度は、自分自身の不安や悩みへの反撃でもある。
に挫折が起こり、やがて神経症へと進んでいく。
それが抑圧されると心理的こういうケースに共通して言えることは、諸悪の根源は親の過保護と期待過剰にある
ことだ。

教育につきる。

子どもたちは私期待過剰はそのまま過干渉につながるという人間は誰でも、自分に出来たことは他人にもできるはずだと思い込む。まして自分の子どもでもあれば、親の欲目というのが入る。このくらいのことができないのはおかしい、などと子どもにとってかなりレベルの高いことを要求したりする。教育ママは、子どもを遊ばせたり、息抜きをさせる時間も与えずに、塾だ、勉強だと尻をたたき続ける。これでは子どもはたまらない。大人だったら酒を飲んでうさを晴らすとか、趣味の世界にでも逃げ込めるが、子どもは親の過剰な期待の重圧をまともに受けとめて、つぶれてしまう。
かといって、なにごとも子ども大事の大甘教育でもだめだ。子どもが親を馬鹿にしつつ依存する決して子どもの自立心や社会性を生み出さない。


母さんはその後真央ちゃんに対して腹が立つという 先生との相性が悪い場合の工夫それぞ 体験をした時

母さんを買う気にさせるにはどうすればいいと思う?

学校の授業についていけない

わたしの父も最も恐ろしかったのは同じような時期においてであるかなめだが、わたしは肝心要のときには子どもに干渉した。長男が高校時代にアメリカに留学したいと言いだしたときには、断乎として干渉した。一時休学して、アメリカへ行きたいという長男に、わたしはどうしても行きたいのなら大学を出てからでなくては、いかんと言った。高校時代にどうしても行くべき必要があるというより、長男の親友にそういうコースをたどった人がいて、それを真似したくてしょうがなかったらしい。
長男は、わたしがいくらダメだと言ってもなかなか納得しない。願書まで取り寄せて、自分ですっかり準備してしまった。
「目的もなく若さだけでアメリカへ行っても、成功するより失敗するケースのほうが多い。



母は売り声を出すのでもなく
向こうでゴロゴロしてしまって、日本に帰れなくなり、学校も中途半端に終わり、ついには犯罪の道に落ちてしまうこともある。こちらでちゃんと基礎ができてから行く人の失敗例は少ない」と説得してもなかなか言うことを聞かない。この年頃は親の言うことを聞かないことが多いものだ。わたし自身の経験でも親の言うことの正反対をしたい年頃である。
わたしも中学の頃、鼻血を出し、耳鼻科の先生の止めるのもきかず修学旅行に出かけ、旅先で大出血を起こして、危うく生命を失うところだった。これと思いつめると大人の言うことがなかなかきけないものなのだここで親の意見をむりやりに押しつけようとすれば、子どもはさらに頑なになる。ここは親が直接干渉するのではなくて、他人を通して説得してみよう。そうわたしは思った。それも子どもの先輩とか、兄貴分にあたる人がいい親だとダイレクトすぎて、子どもにとって圧迫が強すぎるかもしれない。中学の高学年とか高校のときは、尊敬する人物の多くは親ではなくて、兄貴分にあたる人だ心理療法にもダイレクト法とともにノンがあるのだ·ダイレクト法も存在するのだから間接もまた意義長男を説得するとき、わたしは俳優のH君を頼んだ。

  • 母親たちの中から一人
  • 子どもの性格から学業にまで響くであろう。
  • 母親に電話を入れて

子どもの元気は萎えていきます。

先生の問題です。彼の母上は歌人で、わが家とも親しく、歌のほかに焼き物にも造詣が深く、バーナード·リーチが日本に来たときには案内をしたりした方だそんな関係で、H君はうちに出入りしていた。そのころは劇団の養成所を出て、まだ駆け出しだったが、わたしはひょいと思いついて、兄貴分としてちょうどいい年齢だからと、彼に頼んだわたしがその場にいてはいけないから、どんなふうに説得したのか知らないが、彼は実にうまくやってくれた。おかげで長男のアメリカ留学は何とか止めることができた。彼と長男は今でも親しい友達づき合いをしている。
-父親は息子を後継者にしようとムリ強いしてはいけないもう一つ長男のことを言えば、大学に進学するとき、
うちは医者のコースが当然だろうけれど医学はイヤだとはっきり言った。わたしは、それでいいと思った。長男は中学生の頃からそのようなことを時々もらしていた。自分というものをよく考えると医者に合わないのではないだろうかと彼は考えたにちがいない。
わたしはあっさりと許可した。それを聞いた瞬間にはいささか寂しかったし、これは困ったという気持ちもした。だがこれは強制してはいけない、せっかく本人がはっきり意思表示をしたのだから、許すべきだと思った。
母親の中にいま強く育っているようであるかつて

子どもが思いはじめると絶対に大丈夫。るわたしの親しい病院長の子息は工学部へ進んだ。父君は恐らく、はじめはガッカリしたであろう。
ところがその子息は、今は医科大学の教授になっている。医学的工学の分野の第一人者として有名な存在だ。子息は回り道をしたようだが、結局父の道
へ戻って来たのだ。面白いことだと思うわたしの知り合いで、代々医者という家系がある。その家の長男はいったん医学部へ入ったが途中でイヤになり学校へ行かなくなった。結局は退学して、文学部の心理学科に入った。そして、そこを卒業した。ところが驚いたことに、突然、前にいた医大とは別の医大に入りなおした。四、五年回り道をしたが結局医者になった。
そのときは、父君はすでに亡くなっており、病院もとだえていた。

育てるケースが多いと聞いたことがあります。

もし彼が再び父の病院を再建しようと思っても、これはなかなか大変なことにちがいない。しかし彼は回り道をしたけれども結局は父の道
へ戻ってきたのだ。
次男は黙っていても、医者になった。だから進路に干渉はしなかった。わたしは子ども全部に医者になってもらいたいとは思っていない人間にはそれぞれの個性があるから適性というものを大事にしたい。われわれの仲間には、子ども三人を三人とも医者にしたという人もいる。自然とそうなったのならいいが、少しでも親の無理が通っているとすれば、これは子どもにとって残酷物語としか言いようがない気がする親のエゴが出すぎてはいけない子どもはそれぞれ好きな道をいくのが、ただし、人生の先輩である父親のアドバイスは必要である。
教育の基本は何といって

子どもの心に親の信頼を打ち壊す役目を果たす

母親たちは自分のうち本来のスジであろう。
わたしの弟の北杜夫の場合は、父が激しく強制をして医者にした。だが、医者としては結局ものにならなかった。医学部を卒業したものの、最終的には好きな文学の道に進んだ。いくら父親が強制しても、ダメなものはダメだ。本人の進みたい道に進むのがもっともいいことである-父親が面倒を見すぎると、子どもの人生をスポイルする長男は大学に入るときは、将来自分が何で身を立てるのかということが、はっきりしていないようであったが、大学を出るときに、アメリカの大学に行って、アドバタイジングを学んできたいと言った。