子どもはこの時期に愛情とは何かを学ぶ。

学校の怠慢

父親の権威も何もあったものではない。父親の言うことに納得がいかないとか、批判があれば、後で二人だけになったときに話し合えばよい。子どもの前で、夫婦の意見が合わず、対立することになっては、なんのために子どもを叱ったのかわからなくなる。
父親の条件として、子どもにやさしいのは結構だが、四六時中常にやさしいというのはどうもよくない。ある時はやさしい父親、ある時は厳しい父親、この二つの顔を持っていたほうがいい。
のバランスをどうとるかは、子ども次第である。そのために、子どもの性格をよく掴んでおかなければいけない。
子どもの性格によっては、叱っていい子どもと、やたらに叱ってはいけない子どもがある。
その日その日によってどちらを選ぶか違うことがある。
また母親の理想的なタイプは、神様しかできないかもしれないが、二つの極の、ちょうど中間に位置する母親だろう受容過保護と厳格干渉の父親の場合は、母親とちがって中心点が少し厳格に片寄ったほうが、むしろいいような気がする母親が多少甘ければ、父親はちょっと厳しく、という具合にして、二人合わせて百になるようにすればいい。

子どもが商品選びに迷っているとき
子どもが商品選びに迷っているとき
子供が損得だけでしか動かない
子供が損得だけでしか動かない


子どもはうれしくて満面の笑みになります。

母さんは少し心配です。子どもの心に届くということ。分業である。両方とも、厳格型であったり、受容型ではそのうち破綻がくる。男親女親としての役割を決めて、二人で百になるように行動すれば理想に近い線が出てくる。
父親像の変化というのは、当然あってしかるべきである。ノイローゼは、新しい環境に適応できないことから起こる。カメレオンのように周囲の状況で体の色を変えることができず、適応能力に欠けた人、適応しそこなった人が発病する。われわれは社会の中で生きているのであるから、社会の変化に自分を合わせていかなくてはならない。だから父親像も刻々と変わっていってもいいと思う。だが、人間の本質はそんなに変わるものではないから、その変化は目を見はらせるものでなくてもよいのだ。
日本人と中国人のプロポーションの差のひとつは脚であろう。足の長さから腰付きなど、日本人は中国人に大分劣る。

子どもに担任が注意をしました。

成長の自然なリズムをこわしかねないのです。日本の女性からは叱られるかもしれないが、これは事実だから仕方がなぃ。
これは何千年も前から、中国人は椅子とテーブル式の西洋風の生活をしてきたせいである。日本人は坐る生活を採用したから、同じ人種にもかかわらず、長い間に体型に差が出てきてしまった酒ではないが、時代に応じて皮袋も新しくしなければならない。父親も同じだ。四季に応じてオーバーを着たり半袖シャツにしたりするが、服を着る人間自体はそんなに変わらない父親像といっても、根本的には今も昔もそれほど大きな変化はあるはずがないやはり、父親がリードし、母親が従うような格好の夫婦であってほしい。
母親がそれを補助するというのが人類の本当の姿ではないだろうか。元来、そうできているのである父親が主導権を握り肉体的にも心理的にも夫は狩りをし、畑を耕し、凄は家を守り、着る物を縫い、獲物を料理することを何百年もやってきた。母さんまでも疑っているそういう核となるスタイルはそう簡単に変わらないと思う。
-単身赴任をした時は家族との通信を密にせよ単身赴任が珍しいものではなくなってきた。さかのぼってみれば、万葉時代の防人に始まり、徳川時代の参勤交代で一般化したというから、これはもう勤め人にはつきものと言うべきであろう。しかし、弊害が今、社会問題になっている。
わたしたち世代のものには、1年か1年半在学しただけで、またよその学校へ転校していく子どもたちが多かった。どこからともなく姿を現し、またすぐ他の場所へ移っていく。わたしたち地元の子どもにとっては、転校生は妙に魅力的な存在だった。まさに、宮沢賢治の風の又三郎の世
界と言えよう今、どのくらいの人が単身赴任をしているのだろうか。

学校に奪われた親

数年前の労務行政研究所の調査によると転勤者の単身赴任率は、四十歳代前半111.三パーセント、四十歳代後半三三·三パーセント、五十歳代以上四三·八パーセントとなっている。これらの数字から推定すると、単身赴任者の数は三十万人から四十万人にもなるそうだ。
単身赴任の理由は、圧倒的にいるのでということになる子どもの教育のため
次がマイホームがある

父親,母親が転校は、たしかに子どもの勉強にはマイナスだ。学校によって教科書もちがうし、教科の進み方もちがう。高校生だと、希望した学校に転校できないとか、やむをえず学校のレベルを下げなければならないということもある。少しでもいい学校に進ませてやりたいと思えば、確かに家族ぐるみの転勤を断念する気持ちもわからないわけでもないしかし、きついことを言わせてもらえば、これらは教育の心配ではなく、成績あるいは受験の心配にすぎない。


父親と会ったでしょう。

つまり、もっとも根本的な教育が忘れられているような気がするのだ。
精神科医で作家のなだいなださんの尊敬する社会学者の故きだみのるさんは、娘さんを学校に行かせず、自分の放浪生活に連れて行き、自分一人で教育した。日本の法律では違法だととがめられるが、なださんは、そこに教育パパの極限の姿を見る本当の教育パパ、ママとは、家庭教師をつけ進学に有利な学校に子どもを入れようと血まななることではない。自分の挫折は自分限りのものとして子どもに譲らず、子どもの才能を見つけその才能を伸ばすために自分の力を貸すだけで満足するのが本物なのだ。自分の子どもの才能を見つけるのは、親以外にはないと、なださんは、その著親子って何だろうで書いている。母親がそれを許さない。


子どもの心に届くということ。 先生が一手に引き受けて解決 母は売り声を出すのでもなく