子育てという

体験してしまうといった症状が現われる病気だ。

家族の一人としての連帯感を植えつけるのだ。
子どもにものを与えるときでも、漫然と渡さないで、何かつ子どもが課題を果たしたときにやることにする。本なども、むき出しにしないで、ちょっとリボンでもつけてやれば、子どもは強い印象を受ける。そういう心遣いと、区切りが大事だ国にもいろいろな祭日があるように、の知恵というものである。
家庭にそういうものがあるほうが自然であり、それが人間
父子の距離をどう縮めるか
-父親は仕事で辛い時期は子どもに対して怒りっぽくなりがち世代間の断絶、という言葉が使われて久しい。いつの時代でも、世代間の断絶を感じさせるのは父と子の関係である。わたしの場合も、むろん、それはあった。この言葉は多分、永遠の言葉と言っていいだろう。

育てる一つの基盤として
育てる一つの基盤として
子どもの犠牲となって死んでいった例
子どもの犠牲となって死んでいった例


母から聞いたところでは兄

子どもの心に届く子育てという前にも少し触れたが、わたしの子どもの頃の父をひと言で言えば、カミナリオヤジと言ってよかったのではないかと思う。わたしは父が怖くて、いつも逃げ回っていたと言っても言い過ぎではこれに反して弟の北杜夫はかなり父からかわいがられていたように見えた。
しれないが、表面的にはそう感じられたのであるわたしのヒガミかも父にしてみれば、弟はわたしと十歳も年齢がちがうので、なおさらいとおしかったのだろう。

教育現場の荒廃した状況

子どもがどのくらい片づけられる弟の勉強を見てやったり、親子で将棋を指したり、わりとウマが合っていたようだ。弟が小学生、中学生の頃だ。わたしは半分独立して、家にいないことが多かった。家にいるとイキがつまり、外へはけ口を求めていたようであった。
わたしが父から勉強を見てもらうような時期というのは、父にとってはとてもそんなことをしていられないという
非常時的な状況にあった。大正十三年の火災の後の病院再建の時代で、病院長を祖父と交代したり、とにかく大変な時期だった。その頃は厚生省もない時代で、なんと精神科の病院の監督官庁は警視庁だったのだ。
今の警視庁とちがって、ちょっと患者が病院からいなくなっても始末書を取られたり、病院長が呼びつけられたりで、監督というよりアラ探しに近かった。子育てにはどうにも自信が持てませんでした。病院長職も祖父ではダメであるから父に代われと命令したのも警視庁である当時、警視庁には父の後輩で、日本精神病院協会を昭和二十四年に創立した、金子準二先生という専門家が技師として居られたからまだよかったが、それにしてもいやなことだらけであったと思当時の父の日記には、神経衰弱になり夜も眠れず、睡眠薬の量がふえるとか、悲観的な言葉が多い。それが大正の末から昭和の初期にかけての頃だ。その頃が一番辛い時期だったようだ。当然、父は忙しく、従って、親子の交流というものもあまりなく、たまにしか会えないので、会っても叱るよりほかなかったということだったのであろう。ゆっくり話をする時間もなかったのだ-わたしの結婚話に一喜一憂した父の無邪気さただ父にも面白いところはある。

子どもが悪事にのめりこむ

たのだが、祖父はそのころ浅草で開業していたため、父の最初の東京生活の場所が浅草となっそれ故に父の一番の思い出の地は浅草であり、そして最後の外出もまた浅草になってしまっ父は十五歳のときに山形から祖父に引きとられて東京に出て来晩年、父は歩行もままならぬに、浅草行きを強く希望し、わたしと弟で父の両脇を支え、き添って、やつとの思いで浅草の観音様にお参りしたのが、最後の外出になったからである母が付そういうわけで、父は浅草の軽演劇が大好きで、わたしもよく連れて行かれた。


母が縫ってくれて

記憶に残っている一つのエピソードがある。八木節だかを観に行ったとき、父が客席から舞台と喧嘩をしたことを覚えている。
父が野次でも飛ばしたのを、よくわからないが、とにかく、芸人が怒ったのだろうか、客席と舞台でやり合った。
それをまたけしからん
と言ったのかそういうところが浅草的で、客と舞台が渾然一体となって、わたしはまことに、恥ずかしかった。
怒ったり、悲しんだりする。
しかし、父の性格の純粋さがなせるわざだろうが、父にはそういう大変庶民的なところもあった。
のちに父は新宿のムーラン·ルージュもたいへん愛した。「新宿のムーランルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我れは泣きけり」
という歌がある長じて、わたしは見合い結婚をした。子どもっぽい


子育てという 子育てという 子どもという弱者を相手にしているということです。