成長の途上で心も体も不安定なのです

子どもの世界

かなり高い神社の塀から落ちて、骨折したこともある四谷の家へ引っ越してきた当座は、屋根に登ったり、月光仮面の真似をして、塀から飛び降りたり危ないことを平気でやる。器用で何をやってもうまい。長じてはマラソンをやれば1等になる。グライダーにも乗る。とうとうカー·レーサーまでやってしまう。しかし、それもある年齢までで今はすっかり落ち着いている。
次男のほうは、あちこち目が向かないで、趣味はただ一つ。ヒコーキマニアである。
ら原稿を頼まれるまでになった。そして黙っていても医者になっ航空雑誌か考えてみると、長男はほとんど放ったらかしだった。子どもの面倒を見る余裕がなかった。
ために親は、一生懸命だったから、そのために野育ちだ。粗衣、粗食で育っている食ういちばん辛い時期が過ぎて、日本全体に多少のゆとりが出てきた頃に次男が生まれた。
11年はずいぶんとちがった。



母親になるということはすばらしいことです。
子を大切に育てられるだけの余裕ができていたあの頃のわが家では、長男と次男の公式の逆をいく性格の違いの要因のひとつがそのへんにあると思うむろん、環境だけでなく、素質というものが一枚かんでいることは、精神医学の常識であるからこの事は忘れてはいけないが、従来はこの環境というものが忘れられがちであったから、わたしはあえて、環境に重点をおいてこの項を書いたのだ子どもの自主性を尊重するのは、父親の役割こんなことがあった。

  • 子どもたちはいろいろに思います。
  • 母さんなんか大ツ嫌い!
  • 勉強していくものだと思います。

教育ではくさんある。

子供にぶつけ女房は子どもの頃からバッハ、ベートーベンを聴くというような音楽的な子どもたちの情操教育を音楽でやらせようとしたのも無理はなかっ家庭で育ってきたので、当然、長男に、バイオリンの先生をつけたが、その先生が厳しくて、宿題は出す、やってこないとビシビシやる、それでとうとう先生のところへ行かなくなってしまった。それでも家内が手を引いてむりやり連れて行くということが、二、三回はあった。しかし、そのうち長男は断乎として拒否するようになった。
わたしはこれは合わないと感じて、思いきってやめさせてしまった。ところが、それから何年かして中学生になったら、音楽に夢中になったのだ。グループサウンズを結成して、コンクールで一位か二位になったりした。
成長の途上で心も体も不安定なのです

母さんはこのような人だろうと思う音楽的な素養は充分にあったわけだ。だが、小学生の頃は一種の強制で
自由意志でなかったので、逃げたりしたのだろう。もっとも子どもの頃に前途を見通すだけの能力などはありつこないのだから、ある意味での強制が必要なこともあるだろうが、これはだめだと見極めをつけたら、さっさと見切りをつける勇気も必要だ。
その場合は、母親よりもむしろ父親の役目だ。
そんな母親を説得するのは父親の出番なのだ。
母親はどうしても、子どもに何でも習わせたがる。
ただ、たとえ下手であっても本人にやる気があったり、楽しみの一つであれば、続けさせればよい。往々にして、こんなことをしたってお前の一生に何の役に立つのかと世の父親、母親はよく言いたがるが、もし余力があれば何でも経験させるべきだ。そのために、落第したり、本来の勉強がおろそかになるようだったら話は別だが、人生の実利とは無関係でも夢中になれるものが、二つや三つあってもいいのではないだろうか。

教育改革の具体策として論議されているようです

母親はどうしても実利的なことに結びつけたがるが、そんな時は、父親が子どもの味方になってあげる必要がある。
次男は今は飛行機専門だが、子どものころは天文学に夢中だった。
トして、一晩中空を眺めていた。
冬の寒い夜でも望遠鏡をセッ一つのことをとことんまでやりそうだと思ったら、少々のことには目をつぶるべきだ。子どもが本気でやろうとしているのかどうかはすぐわかる。ひと月もすればすぐ飽きてしまって、次のことに夢中になるようではだめだ。三カ月、四カ月とそれに夢中になっていたら、これは本物だから許してやらなくてはいけない。
子どものことだから、本格的に長続きすることばかりではないかもしれない。
母親への依存度が高い子ほど危険一時期しき

中学へ行くまでの十二年間親の方

子供を一人前の社会人へしかし大人になってからでも、夜空の中から遠い星を探し出した感動とか、そのときの情熱というものは人間的な糧となってあとに残るはずだ。
-親は子どもの趣味には口をはさまないわたしは実生活に直接役に立たないような趣味を持っていることが、その人を大きくさせることだと思う。そういう意味で、子どもが趣味を持つということに反対はしない時に、親の目からは、もっと別のことに興味を持ってくれればいいというような趣味であっても、子どもがそれに興味を持つのは仕方のないことだと思う。

子どもが小さいころからいろいろなことを学ばせいろ

母さんを憎んだり度を見ていればいず

母親から言われた言葉が多いものです。

そのとき父はもの凄く怒り、しかも心配そうに、どうした、大丈夫かという態度をしたことを覚えている精神科の医者なので、頭を打つというのがよくないということは常識だから、半分怒り、半分心配したというその気持ちは今のわたしにはよくわかる父は長崎に五年いて、一時東京に帰り、それからヨーロッパへ留学のため旅立ったのだが、長崎時代に大病を患った。病気はスペイン風邪、今でいうインフルエンザだが、全世界を席捲して、二千万人の人が罹り、死亡率三〇、四0パーセントにも達した。当時の長崎医専の学長先生も亡くなったし、わたしの母も、わたしも罹った。父の場合、予後がどうもはっきりしないので、大学を休み、雲仙、嬉野、古湯など長崎周辺の温泉に休養したりした。

伸ばし方という意味

東京に戻ってきたあと、信州の富士見高原の療養所で静養して、そのままヨーロッパへ発つ父が死んでからの話だが、父の遺体を解剖した結果、あの頃どうも具合が悪かったのは、だったのだなという結論が出た。結核を患っていたのだ。
これスペイン風邪が結核を誘発したといってもよい。ちょうど肺尖のあたりに結核が治った跡があった。石灰化といって、石灰が出てきて病気の部分を埋めるという働きが人間の体にはある。これが肺尖に見つかったのである
次に父を意識したのは、わたしが小学校四年生のころだ。
きく姿を現わしたのであるヨーロッパ留学帰りの父が目の前に大父はヨーロッパの帰りに、アメリカ回りで帰ってくるつもりでいた。ところが、後から父を追ってヨーロッパに行った母が懐妊したので、予定を変更して、日本へ直行した。その船が香港と上海の間を航行しているときに、青山の病院が燃えたという電報が入った。
大正十三年の、もうすぐお正月という暮れもおしせまった頃に、敷地内の一部の家屋を残して焼けてしまった。
病院が火事になったのである祖父が、父は歌詠みだし、帰国すれば、どうせ仲間を集めて歌会のようなことをするのだろうと考え、それにはある程度大きな部屋がないと困るだろうというので、病院の敷地の一角に、父を住まわせる二階家を建築した。

 

子どもの数が減り一人っ子の家庭も多くなっていこう

しつけという点において大きなマイナスなのです。ほとんど完成間近のところで火事が起こった。天井の一部が燃えたが家の本体は残った。とりあえず応急修理をして、一家がそこに住んだ。それによって、わたしとって、初めての家族同居の生活が始まった。
今までずっと父がいなかったのに、今度は仕事以外には家にいる。第一、朝食時には必ずいるわたしが父親の恐ろしさを感じたのはその頃からのことだ。一緒に食事することの辛さ、恐ろしさというか、しょっちゅう小言を言われていた。父の小言は箸の上げ下ろしなどを干渉するのではなく、日常の基本的な小言だった。
もっともその頃のわたしは内向的逃避型の子どもで劣等感の権化みたいであったので、を恐れて、逃げまわっていたのかもしれない。
よけい父それまで全くのひとりっ子で、しかも両親がいなくて、一種の完全な放任主義のうえ、周囲の者も甘ゃかすし、しかも、わたしを育てた婆やというのがたいへん大甘で、今から考えるとぞっとするような育児をやられた。

大学も付属嫌いなものは一切食べさせないとか、そういう超過保護的な状況にあったわけであるそういうことで父から見れば、いくら叱っても叱り足りない息子だったのだろう。
1弟妹が生まれることで過保護から脱却間もなく妹が生まれた。寒い朝で、婆やがその赤子を抱いてやって来て、あたためてやってくださいねと言ってわたしの布団のなかに入れた。すえた乳のような臭いが、その小さな肉のかたまりから匂ってきて、わたしの鼻をやわらかく刺激した。衣服を通してかすかなぬくもりも感じられたわたしは九年間という間、のであった。
ひとりっ子でいて、その晩はじめてきょうだいというものを実感したわたしはほんとうに長い間、ひとりっ子として育ってきた。当然のことだが、きょうだい喧嘩の味を知らずに育った。

母乳語に専念しなくてはならない段階の赤ん坊のとき

母親への依存度が高い子ほど危険一時期しき父は病院の再建に忙殺されていたので、わたしの前にはほとんど姿を現わさず、母もまたその性格と環境の故に、ほとんど姿を現わさなかった。たまに現われてもわたしを身体の小さな大人として扱い、すべてに先手を打ち、干渉した祖父は火災の打撃で、まったく気落ちし、病院の再建の苦労はすべて父の双肩に重くのしかかっていた。おまけに、ヨーロッパで三度の食事を二度に減らし、大いに倹約して苦労して買いこんでは日本へ送っていた本が火をかぶったり、焼けてしまったことなどもあり、父の機嫌はきわめて悪く、わたしの頭上にも毎日のようにカミナリが落ちた。父親というものはこんなに恐ろしいものかと思った。小春日和にいきなり竜巻が襲ってきたようであった。
父はどうやら、留学が終わったあと、大学に残り、教職、研究の道を進もうとしていたらしいふしがある。

子どもたちが見て育つ

母親が受けるその理想も、病院の火災でご破算になり、研究どころか、父にとって最も苦手な、病院経営といういわば経営者の道を歩くことになったことへの不安と不満、毎日の世俗的な仕事の堆積が文学活動に大きな障害になったことなどが、父の気分を平穏と反対の方向へ引っ張った。さらに金が足りなくて、高利貸しからも借金をし、その返済に苦しみ、ときに差し押えの脅迫を受けるなどの苦難の道を歩むことになる。大正の末頃、父は自らを神経衰弱と診断し、とみに睡眠薬の量がふえた一方、婆やがわたしの身近にいる。


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