先生との相性が悪い場合の工夫それぞ

母親が立っててんで親のいらだちを相手にせず

そこへ行ってリヤカーを一週間ばかり貸してもらっておいて、いざとなったら、そのリヤカーを使うことにしていた。
ある朝、陣痛が始まったので国電で11駅ぐらいのところを、電車に乗せて病院へ連れて行ったすぐとって返して、リヤカーにふとんを積んでまた病院へ行った。そして、女房の里へ知らせに行く。当時は電話も直通ではなくて、申し込んでから何時間もかかるので、直接行ったほうが早かった。生まれそうだと知らせて、病院へ戻ってきたら長男がすでに生まれていたあんまりあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、てんてこまいだったから、しいとか、よかったとか、そういう印象はまるで残っていない。



母さんもたくさんいます。
子どもが生まれて嬉今のように、でもあろう父親が会社を休んで、病院に行き、枕元にいてやるようなことはできなかったから退院して家に戻ってくる。赤ん坊がヒーヒー泣いても女房の母乳が出ない。今の人には考えられないだろうが、牛乳を手に入れるのに、医者の証明が必要だった。それが正規のルートだが、それでは足りなくて、埼玉県の山奥まで行って、山羊のお乳を譲ってもらって、補充したこともあるお腹がすくから、今の子どもよりもはるかによく泣く。お袋や妹は、神経衰弱になってしまう
とか、眠れないとか文句を言う。そのたびに女房は恐縮する。そんなことで、みんながギスギスしてくるそのようなグチを疎開先の父への手紙に書いたところ、子どもは泣くものだ。

  • 母さんに打ち明けたのです。
  • 子どもに語りかけている
  • 育ててゆくという意味だからです。

母さんの頭の中はもう

子どもを守ろうとするのは自然なことです子どもの泣き声は天使の声と思えという手紙が女房のところへ返って来た。田舎の父のところへ親切な人がお米やいろいろな食べ物を送ってくれる。それをそっくり、こちらへ寄こしてくれた。ただし、
これはみちこ女房のために送るんだと言ってくる。それはありがたいのだが、ほかの家族のことを考えると女房はよけい小さくなってしまい、ただ恐縮するのみであるそんなことで、長男は一番苦労して育てた。
しつけるのではなく

母親が視界から消えたとして-環境の影響で性格が逆に出たわが家の長男と次男家もこれではあまりにも狭いし、夜だけでも開業しないと食べていけないので、母もいろいろ探してくれ、世田谷の一画に別な家を見つけて、そこへ入った。そこは父を引き取れるくらいの余裕があったので、父に上京してもらった。
医局員が開業をしてはいけないという原則を、特別に許可してもらって夜だけ開業したのだが怪我でも骨折でも何でも診た。当時は精神科でござい、とおさまりかえっているわけにはいかな
かった。耳鼻科でも、眼科でも何でもやった。近所の家々のホーム·ドクターみたいになって、往診のときは、雨の中、長靴はいて歩いて遠くまで行った。やっと自転車を手に入れたときは大騒ぎだった。医師会でくじ引きに当たったのだが、ロールス·ロイスでも買えたような嬉しさだった。

子どもへの虐待といってもいいであろう。

その家は小さな庭があったので畑にして、トマト、ナスなどをつくっていた。畑仕事をしていると、患者さんが来ましたよというので、手を洗って診察したという時代だった。
母は母で事務的なことをしていた。病院の焼跡の処理とか、財産税というのがあり、現金のない者は物で納めなければいけないという物納という制度があった。青山の病院近くにあった家作を国庫に納めることになった。その家作に家賃の集金に行くと、「こんなオンボロな家、大家が何も手入れしてくれないから金を払う必要はない」などと凄まれてスゴスゴ帰ってくるといういやな思い出もある。その家を国庫に納めたりで、母も何やかやと出歩くことが多かっカカi,た長男が這うようになっても、家に誰もいないから、危なくて仕方がなぃ。女房も配給などで出ていくことが多かった。そのとき母が何をやったかというと、帯の一方を柱に、縁側から落ちない程度の三、四メートルの長さに、赤ん坊を結んでおいた。これは一見合理的だが、女房が後で青くなっていた。這っているうちに帯が首に巻きついて、窒息でもしたら大変なことになりかねないからだ。
母さんが言いきかせようとしていることのほとんど

母さんのことばをお手本にしてことばを身につける。

育て方は決して間違ってはいうちの母は平気でそういうことをする。普通の祖母であったら、抱っこしてあやしたりするのだが、面倒くさがって、帯で結んでしまうのだ。今から考えてみれば、ずいぶん危険なことばかり横行していた。
長男というのは例外があるにしろ多くは蝶よ花よで育てられるから、おっとりして、のんびして、大人の相が出てくる。しかし、弟はその反対に育てられることが多いから、すばしつこくて、目先が利いて、冒険家で、暴れん坊で、積極的になる。これが普通なのだが、わが家では反対なのであるたいじん長男は活動的で、怪我ばかりしていた。

子供が立ち上がると私の方をむいて

母親が喜ぶと思ったのだなと。

子どもが将来お金で失敗して

まあしょうがないやとわれわれはよく言うが、父には絶対そういうところがなかっただから全身全霊で一つのことにぶつかることにもなる父と一緒に食事をしていると、すぐにガリッと石を噛む。昔はよくご飯の中に石が入っていた同じご飯を食べていても、こちらは噛まない。父だけがガリッと噛んで烈火の如く怒る。ご飯を噛むのも全力投球なのだ。われわれみたいにいい加減に噛んでいるのではなくて、決死の覚悟で噛むという感じだ。だから石を噛んでしまう。

小学校六年を終えている子でそれに対して

そしてカッと怒る。炊事の婆やが叱られてメソメソしている姿が今でも目に浮かぶ。
また、父は一日の生活が判で押したようで、定のパターンで終始した。
朝起きてから寝るまで、特別なことがないかぎり!
もろはだ朝、きちんと起きて、洗面のときは浴衣の洗いざらしたような寝巻きを諸肌に脱ぎ、体を拭く。真冬でも決まってやっていた。これはヨーロッパみやげだ冷たい水でかたみ父は三年間ドイツのミュンヘンで生活していたことがある。当時の歌に街上を童子等互に語り行くペン尖1つ五十万マルクするよというのがあるが、いかにインフレが物凄かったかがよくわかる。ドイツもオーストリアも第一次大戦の後で、敗戦国でもありインフレがもの凄くて貧乏のどん底みたいなときだった。もともと向こうの人は日本人ほど風呂には入らないが、当時はとくに風呂に入ることは贅沢なこととされ、冷水で肌を拭くのがせきのやまだったらしく、それを父は真似たわけである。

 

母の答えはいつも同じ。

先生もまた能力が低い父は、これを一生つづけた。
また父にとっては、食事に絶対に欠かせないのは味噌汁で、味噌に関してはことのほかうるさかった。前の晩、味噌汁の具を炊事の者にさと芋がいいとかネギにしろとか、いちいち注文した。
-自分の肉体を必要以上に気にする過敏さ夜寝る前に必ず家の者がやったことは、父が慢性の便秘だったので、硫酸マグネシアという下剤を水で溶いて持っていくことだった。飲むと朝起きたときにうまく通じがあるというので、毎晩寝る前に飲むことを習慣にした。
酒も若い頃はずいぶんと飲んだが、度を越すことはなかった。父が酔っ払って醜態を見せたことは一度もない。タバコもかなりのヘビースモーカーだったが、長崎医専時代にスペイン風邪にあって、そのあと微熱が出たりして治りがはかばかしくなかったのをシオにピタッと止めた。

子供にしたく自分の体を考えてのことだったと思う。これがちょうど四十二歳の時である。これも神経質のおかげではなしかと思うまた、文学をやっている人間にもかかわらず、他の文学者のように徹夜するというようなことは一切なかった。徹夜をしないというのは、もちろん本人が医者ということもあるが、神経質のなせるわざではなかったかと思う。自分の肉体を必要以上にいたわっていたということだ三十の声を聞いた頃から、日記とか文章とか、人さまに喋った言葉に、老いという言葉がさかんに出てくる。

学習全体へのモチベーションが上

体験をした時他にも疲れるとか、風邪ひきやすいとか、眠いとか、そういう言葉がよく出ている。自分の肉体に対する関心が異常に強いのである父は体をいたわるという点から昼寝をよくした。体質的にも非常に敏感で、医学的にいえば、自律神経過敏症といっていいだろう。たとえば朝から頭痛がする、きょうはカミナリが鳴るぞと言うと、午後には必ずカミナリが鳴る。カミナリが鳴る前兆である気象の微妙な変化も体に感じた
のだろう。
また、勉強の後に疲れてちょっと横になる。そういうときに人がくるのを極端に嫌う。

子供を持っている親の世代

子どもの気持のゆるやかな承認だけをしていてやる。新聞記者などが来ると、お手伝いさんが、今お留守ですとか、昼寝なさっています
昔の人は今のようにきちんとアポイントを取らずに、いきなり来ることが多かった。
編集者やとか言う。
それに、狭い家だから、下の玄関で
どうしても会いたいというのが聞こえる。相手はなかなか帰らずに粘っているわけだ。二階でそれを聞いている父はイライラする。ついにはムラムラしてきて、下へ降りていって、帰れなどと怒鳴って追い返す。とんだ居留守ということになるが父はそんなことは念頭にない。怒りの感情だけが頭の中を占めているのだ。だが、あとで電話をかけてきみ、すまなかったななどと謝ったりするのだ。
-人間嫌いの面は内閉性からきていた父の性格の特徴として、と非社交型となる。


体験をした時 母さんもたくさんいます。 子どもが小さいころからいろいろなことを学ばせいろ

母さんもたくさんいます。

勉強にして

子供たちの半分はカギツ子であるわけだ。

この子は牛乳を飲ませると、すぐ吐くとか、牛乳を飲ませると、すぐ下痢するので飲ませませんという母親がいる。わたしの経験でも、牛乳はたしかに下痢することがあると思う。だが、牛乳というのはカルシウムの補給に大事なものであるから、下痢をしてもどんどん飲ませているうちに、体が慣れてくるものだ。ところが、今の母親は子どもを大事にしすぎるのか、自信がないのかこれが実行できない。
飲ませなさいとわたしが言っても、母親は言うことを聞かない子どもがかわいくて下痢をするのをみすみす飲ませるのかと反発するのが今の母親だ。では牛乳を飲ませなければ、他にどうしたらよいか、という対処の方法は何もない。
確かに、嫌がる子どもに、ただ牛乳を飲め飲めと言っても、これは飲まない役割がある。父親が子どもの目の前でしょっちゅう飲んでいればいい。しかもうまそうにだ。子どもというのは、何となく大人の真似をするものだ。それをせずにガミガミ言っても無駄というものだ。
こに父親のわたしが子どもの頃は、牛乳が嫌いで、トマトが大嫌いだった。どうしてもトマトを食べないといって、家の中から締め出されたこともある。

経験が基礎として必要なのである

そうなると、こっちとしてはいよいよ反発してしまう。それよりも、両親が眼の前でどんどん食べればいいのだ。牛乳をガブガブ飲めばいいのだちょっと時間をかけて真似をさせればいいそれと、思春期になってくると、異性を意識しだすので、これを食べないと背が伸びないとか、肌がきれいにならないなどと言って、嫌いなものを食べさせるチャンスでもある。何ごとも工夫しなければ前進はないのではないか-父親は反応過敏症にならない強い心を持てわたしは本来、牛乳はあまり好まなかった。だが、近頃は年を感じるようになり、いちばんこわいのは骨折だと思うようになった。ある年齢になると、ひとたび骨折すると若い者とちがってなかなか治らない。またちょっとした骨折が引き金になって、ほかの病気をひき起こしたり、ほかの病気をさらに悪化させたりする。
そこでわたしは数年ほど前から牛乳を多くとることを始めた。あまりうまくない。しかも下痢をする。だがわたしには信念があるからかまわずどんどん飲んだ。不思議なことに1週間ぐらいすると下痢は全くしなくなった。

 

教育を考え哲学をかじり政治に関わりするなど人生

しつけについてもね。おまけに牛乳がうまくなった。だんだんふやして今は一日に四、五本は飲む。外来の診察時間中にもお茶代わりに牛乳を飲む。寝る前にも11本は飲む。旅に出てホテルの朝食にもコーヒーや紅茶はやめて牛乳を飲む昔、ホテルの朝食に牛乳を飲んでいる人をブベツのまなこで見ていたのだが、今は人からブベッの目で見られる立場になった。放送局などでも、
お飲み物は?と聞かれれば、以前はコヒーと言ったのを今は胸を張ってホット·ミルクと叫ぶ。わたしはまだ冷たい牛乳をがぶがぶ飲むことはせず、一応あたためて飲んではいるが、そのうちチャンスをみて次第に冷たい牛乳にも挑戦しようと思っている。
要するに、一時の反動の時期を乗り越えればいいのだ。これには勇気が少しおおげさだがいるが、多くの世の親はその勇気がないのだ。

体験は実生活で必ず役に立つでしょう。不眠症の人が入眠剤をやめるのがこわくて、なかなか泥沼から抜け出せないでいるのも、要するに勇気がないからであるとにもかくにも、子どもの言うことにいちいち反応し、その反応をあらわにすることがいちばん悪い。しかも、その反応が最も強く出やすいのは母親であろうから、ここに父親の役割があるのではないか。父親は子どもへの安易な反応への防波堤の役目を果たさなければならない。そのために、父親は母親へニラミをきかすだけの自信と強い心を持たねばならぬのだ。
-子どもの甘えと親の期待過剰が家庭内暴力を引き起こすいくつになっても子は親から離れず、親は子を離したがらない親は子どもの一挙一動に一喜一憂する。一見まことにうるわしい情景だが、どこかおかしい。自然に反している。厳しい世界に生きる生物の姿ではないHigh Emotional Family - ハイ·エモーショナル·ファミリーといって、情緒過剰家族と訳しているが、この情緒過剰家族の中では、精神分裂病の再発が多いという貴重な報告が長崎大学精神神経科から出されている。

子どもにビールを飲ませたりする親がある。

先生から言われるとピリリとした。これは日本だけでなく世界的な調査の結果であるグローバル大学の入学試験に母親がついて行くという話はさきほども述べた。かなりの年月がたつが、すっかり定着したかのようにみえる話題である。大学のみならず、そういう人間が社会人になってもこの関係は影響する。こうした家族は情緒過剰家族と言える。
複雑な人間関係や、複雑な機構をたくみに生き抜き、勝ち抜いてきたビジネスマンが、自分の属する組織団体に適応し過ぎて、本来の自分の姿を見失い、心身の異常を訴えることがある。これを過剰適応というが、こういう人間には、情緒過剰家族の中で育ってきて、過剰密着の親と子の関係を持つ者が少なくない。

子どもたちに対する

母さんの後ろに隠れてしまいます。初老期を迎えても、こういう
精神的離乳のできない不幸な人も案外と多いこのような関係の前面に登場しているのは母親だが、その母親の背後に必ず父親の姿が見えるのだ。父親が母親に多かれ少なかれ何らかの影響を与えている。
甘えに支えられた親子関係を世人は過保護という言葉で片づける。なるほどその通りであるが狭義の過保護だけで子どもは家庭内暴力にまで至らない。
単なる甘やかしだけでなく暴力への道程には必ず過剰な期待が存在している。もっと具体的にいえば、過剰なる期待が過度の干渉を生み、その干渉が子どもの暴力に発展すると言っていいと思うのだ。
祖母を殺した早大高等学院生、惹き起こした開成高校生の場合、激しい家庭内暴力の末、父から殺され、さらに母親の自殺までもいずれも親の過度の干渉
が底流に横たわっていた。


先生から言われるとピリリとした。 子どものためによかれと思って 父親がピシャッと抑えたあ

しつけるのではなく

子どもとスキンシップをとっているほど

人間は適当に取捨選択して、どんどん変容していく。
こにのめり込んでいるということはない。
いつまでも、あるところにとどまって、そ内心ハラハラしたこともある。長男が鈴鹿のサーキットにまで出て、自動車レースをやったときのことだ。いつ命を落とすかもしれない危険なスポーツだ。ところが、今はマイカーの運転ぐらいはするが、カーレースの話題すら出ない。テレビでレースの放送をしていても、昔ほど関心を示さない。自動車のことはもう卒業している。だが、こういうことも本人にとっては決してむだではなかった。車の知識の広がりだけではなく、その世界の人たちとのつながりができ、交際範囲も広がり、本人にもさまざまなプラスになる。
わたしはある航空雑誌に、長年にわたって定期的に原稿を書いている。常連執筆者であるのに、このごろはその雑誌の忘年会にはやはり原稿を細々と書いている次男だけが呼ばれ、わたしには声がかからない。次男が、案内状が来ましたかと言う。わたしはポカンとして何だと言ったら、航空雑誌の忘年会のことですよと言う。



子どもが小さいころからいろいろなことを学ばせいろ
わたしには来ないで、伜に来る。これは半面寂しくもあるが、いやな気持ちはしない。そんなとき選手交代か、とつぶやきながら寝床でその航空雑誌をパラパラ読む。案内状が来たって、どうせ忙しく出られやしないからちょうどいいや、などと考えながら本を読む。そして心は安らいでいる
子どもに対して最低限望むこと-しつけはまず家庭の雰囲気が大切「父母の恩は、山より高く、父母の恵みは海より深し、深き恵みにむくゆるは、厚き心をいたすべし」亀谷行著
和漢修身訓
「人には子という者あって、老身の時、たすけとして孝の道を教えて、老に仕えしむるの備とす」
石上宜続著
卯花園漫録
「即ち国の本は家にあり。良家の集る者は良国にして、国力の由て以て発生する源は単に家にあって存すること疑うべきにあらず」福沢諭吉著日本男子論父母に孝、兄弟に友、くつかを並べてみた夫婦相和しという教育勅語を思い起こすような、家庭道徳を説く言葉のい戦前ならいざしらず、今の子どもたちが学校などで、こう教えられたら一体いかなる反応を呈するだろうか。

  • 子どもにももしも将来そして自分
  • 子どもの積極性や意欲は育ちません。
  • 成績はぜんぶ普通。

子どもを抱っこする場合

子供であろうが大人であろうクスクス笑い出す子どもがいるだろうし、ポカンと口をあけたまま、大人は何を言いたいのだろうと、不審顔をする子もいるだろう。今の子どもは上下関係とか権威に対して畏怖する気持ちがほとんどないので、昔のような文句は言わせない式の家庭道徳のしつけはできない。親に都合のいいことだけを、強く押しつけようとすれば、子どもはただ反発するだけだ。
わが家の場合、しつけや礼儀作法ということでは、最低限には気を遣ってきた。その根本にあるものは、他人様に迷惑はかけない
ということだ。細かいことは女房が気配りをしているので、わたしがこと細かに注意したりすることはない。家庭教育というものは、何も肩を怒らせてやるものではない。
子どもが小さいころからいろいろなことを学ばせいろ

子どもが読書の素晴らしさを実感できれば砂に水がしみこむように、子どもの柔かい頭に自ずとしみこむような、家庭の雰囲気が大事だ-父親は子どもに干渉しすぎず、保護しすぎずの態度で接するわが家の長男は決しておとなしいほうではなかった。万事に積極的で、実利的で、自ら運命を開拓するために前進するタチで、小学校から福沢諭吉先生の流れをくむ教えを受けたからよけいそういう人生の生き方が固まった。次男は、少年時代、宗教的にしつけの厳しいG校で薫陶を受けたので、はなはだ行儀がいい。自らを犠牲にしても人を助けるという教育を受けている長男の場合は、勇ましすぎて、親にたてついたことも再三あったから、こちらも怒ったり、怒鳴ったりもした。

子どものファンがいることを考え

今考えてみると、わたしが悪い場合も多かった。わたし自身が苦労して、辛い時期に、子どもを必要以上に怒鳴ったり、叩いたりしている。残念ながら、親の感情がそういうことをさせると思う。親も神様ではない。
体罰は、長男にいちばん多く加えられているだろう。下へいけばいくほどわたし自身の気持ちも落ち着いてきた。したがって、末の三男がいちばんおっとりして、甘えん坊で人が好い。親から叱られた度合いが一番低いからだ。反面、あまり無茶をせず、穏やかすぎるわたしのきょうだいも全く同じで一番父をこわがったのはわたしで、お父さまという評価に変わってくる。
母親になるということはすばらしいことです。

小学校一年位

母親が宿題末っ子になると
やさしいわが家の三男もウチの伝統である冒険心はあると見えて、家にいるより空を飛んでいるときが多い高校のときから大学までグライダーでとおしてきたが、いくら飛行機が好きな父としても
グライダーに乗れとはひと言も言ったことはない。正直なところハラハラしている。親父見にこないかと誘いをかけられたが、一度も行ってやったことはなかった。わたしも飛行機は嫌いではないから一度見に行ってやってもいいとは思ったが、わたしが何を聞かずとも、外でどんなことをやって、どんな生活をしているのか、よく話してくれるからそれで充分という気持ちがあったのかもしれない。
わたしは子どもに無理な期待はしていない。ごく平々凡々に生きて、結婚をして、子孫をもうけて、後世にバトン·タッチしてくれればそれでけっこうだ。格別、出世してほしいとか、ノーベル賞をもらってくれとか、そんな期待はさらさらない。